夢、諦めないと。

 

今日も元気にフランケンシュタインロスの兵士Bです(だから違うと何度言えば💢)

ブログのタイトルが君夢ばかりになってしまうことに関しては優しい目で見て欲しい。

なんてったって、アンリ・デュプレのオタクなんで✊

 

ふと思ったんですけど、フランケンゾンビってめちゃくちゃパワーワードすぎないです…?

フランケンなの?ゾンビなの?って。笑

フランケンシュタインへのロスが酷すぎてゾンビになっちゃったてへぺろ🤗何度でも蘇るぜイェイ✌🏻を略してフランケンゾンビと称しているのですが、強すぎるな…??と。

それでも私はフランケンゾンビだし、ゾンビになっても華麗にステップ踏んでいる。

 

ということで先日書いた感情の赴くままに〜フランケンシュタイン、恋〜なブログ

 

shineweather.hatenablog.com

 

こちらで少し触れましたが 、各ペアの考察をもう少し深堀りしていきたいなと思います。

4章仕立ての予定です。ボリューム=私の熱量ではないことと、すべてにおいて私の独断と偏見になりますので「私の解釈と違うキィーーーーー!!」というご意見はご遠慮下さると嬉しいです。

(でもフランケンゾンビの方と語り合いたいので厄介ですね、ゾンビ🧟‍♀️)

 

あと引くほど長くて気持ち悪いのでできればそっと閉じて欲しい。億が一読みたい方いたらスマホよりPCをおすすめします。(そういうレベル)

 

 

 

 ★━━━━----————————————————————————-

 

 

 

 

————————————————————————-----━━━━★ 

 

 

 

 

 

 

第1章 「相愛〜愛があれば運命にも神にも刃向かえるあきかず〜」

>>「相愛」とは、互いに愛し合うこと。

 

 

 

中川晃教×加藤和樹、言わずと知れた生命創造成功ペア。偉大なるあきかず生命創造の歴史を始めて歴史に名を残した2人。

あんなにヘビーな話のはずなのに、この2人の公演を見た後は気持ちが軽くなるというかスキップでもしながら帰りたくなるくらい光の力を持つ組み合わせ。

 

神が起こした生命の奇跡を最愛の友の力と首で成功させ神に勝った男ビクターと、"特別"な力を持つ友人の片腕として自分の死さえも利用して神に挑む友人の背中を全力で押した男アンリの物語。

 

どうしても1/26以降の強いあきかずの印象が強くて、その話ばかりしてしまいますが東京序盤のあきかずはもう少し距離感がありました。

 

孤高の天才と信者、神と人間、宗教っぽさすら感じていました。

中川ビクターは常人には理解できない少しどころかめちゃくちゃ特別な天才で人を寄せ付けないというか、見ているこちらが自然に拝みたくなるようなそんなカリスマ性と合わせて孤独を抱えているけれど、人を惹きつけるというか。ビクターの孤独がよりビクターを魅力的に見せていたのかもしれない。

本当に孤独で、1人で神に挑んでいるビクターだったし、アンリに対しても「僕の大切な(ビジネス)パートナー」という感覚。友人というよりも”片腕”という言葉の方がぴったりで、信頼はしているけどその奥にある愛にはまだ気づけていないのかなと。それはアンリを怪物としてこの世に生み出してしまった後も。ビクター自身が自分の感情を理解できていないというか、生命創造への欲望しか見えていない感じが強かった。アンリとの出会いも生命創造への過程でしかなかった(と言ったらすごくドライに聞こえるけど)し、アンリを失うことが怖いというより自分のせいで人が死んで行くのが怖くて、それが身近で信頼の置けるパートナーだから辛いという感情が芽生えている。ただ前述の通り「生命創造への欲望」がめちゃくちゃ強いビクターなので、もともとが人間らしくない狂った人間だった。それがアンリ・デュプレの死を追加の燃料(しかもめちゃくちゃ馬力上がるやつね)にして生命創造という光に向かって走り出してしまった。それが東京序盤〜中盤(だいたい1/19くらい)の中川ビクター。

 

「孤独」である人ってなぜか魅力的だったり、何か気になったりしてしまう、なぜか惹かれてしまう、それって自分自身も「孤独」だから共鳴してしまうからだ、というのをどこかで見たことがあります。

この中川ビクター惹かれてしまった加藤アンリもまた「孤独」だったのかもしれません。だからビクターの孤独に共鳴し、強烈に惹かれて信仰してしまった。ある意味狂ったようにビクターを信仰することで自分自身の孤独から目を背け、自分の存在価値を見出した。

そんなアンリは♪一杯の酒に人生を込めてで語っているように「親がいない」。

加藤アンリは親の愛情の記憶がなさそうだなって思っている 

君の夢の中で - GO MY WAY !!

 と過去にも話しましたが、親の記憶がないこともこの時のアンリの孤独を際立たせているし、天才がゆえに周りから理解されないビクターと同じように、普通の人間(と便宜上呼びます)とは少し違う思考回路を持つアンリも普通の人間から見たら”少し”特別だったんだと思うんです。だからずっと「孤独」だった。きっと死体の再利用の論文を書いている時も独りで研究して独りで書き上げたんだと思うのよね、この時のアンリは。そしてその罰も独りで受けた。

似た者同士だけど、特別の度合いが違うというか、アンリ側が自分が下であることを自覚しているしビクターはビクターで孤独であることを何処かで受け入れているというか、それが当たり前になってしまっていて寂しさに気がつけていないから、同じ目的に向かって進むビジネスパートナーになった。

ビジネスパートナーとしてはこれ以上ないくらい最高だと思うのですが、それ以上にはなり得なかった2人。というか、お互いどこかでそうなることを望んでいたはずなのにスタート地点を間違えてしまった。(そもそもアンリが最初からビクターを信仰対象に仕立て上げてしまったのでその気持ちに気づいていたとしてもお互いどうすることもできなかったというのが正しいかも。)

 

だから序盤のアンリはそれこそ酒場で酔っ払ってるビクターが「人殺しでもするしかない」と言ってアンリの首を締めた時も

ビクターの夢=自分の夢を叶えるために材料が必要→でも手に入らなくてビクターが人殺しでもするしかないと嘆いている→自分が死んで材料になるならそれが最良?

とまで、考えていそう。だからビクターにギューギュー首締められていてもあんなに優しく笑っていられたのでしょう。(小西アンリの時は首しめられた時優しそうな顔だけど若干の戸惑いというか、えっって顔が混じるのでね。そこと比較するとという感覚です。)

 

だからビクター葬儀屋石で殴っちゃった事件(ネーミングセンスw)の時も、普通にそれが最良だしビクターならそう(自分の首を使って生命創造)してくれるって確信して気絶させて逃してる。

ビクターもビクターで♪僕は殺人者前後でアンリがそう考えて自分を庇って無実の罪を被ったことを理解している。ただビクターの中の倫理観というか、時間としては少なかったかもしれないけれど濃度としてはものすごく濃いものを過ごしたパートナーを失う怖さと自分の犯した罪をやっとここで実感していて。だからあそこで真実を話すという結論に至った。

ただやはり心のどこかでアンリの首が欲しいという気持ちがあったから、証言後連れ出されるビクターの抵抗感も少なめ(あくまで”少なめ”)だったんだろうし、アンリもビクターがそうしてくれると信じてあの場(裁判の場)に立っているから、ビクターが証言をした時に「何言ってんだよ」みたいな顔をしたんだと思う。

 

そんな感じで利害の一致している2人の君夢はなんだろうすごくドライでビジネス感があって。(他ペア比ですが)

序盤のあきかずの君夢の「君の夢の中で生きられるなら」=ビクターの生命創造とそれが創り出す新たな世界で生きられるなら であって、ビクター自身の夢の中ではないというか、ビクター・フランケンシュタインという個体の夢ではない。うまく言葉にできないのがもどかしいんだけど、本当にアンリにとってビクターは神様だったからビクター自身の夢(志)の中で生きるがアンリ的にはギリギリセーフラインで、ビクター自身とビクターの夢の中で生きることはアンリ的には神に近づきすぎている感覚なのかもしれない。だから教祖と信者みたいになってしまったし、アンリの信じている宗教(=ビクター)は教祖のために、教祖の夢のために自らを差し出すことが良しとされているし、それが信者にとって最高の幸せであったんだろうな。

 

ビクターの生まれ持った神性を宗教化するととんでもない新興宗教みたいになってしまいましたがそれくらい神と信者感が強かった。

あとここまでアンリが嬉々として首を差し出したのって、アンリ自身が死に場所を探していたのもあると思うんです。それはどのペアのアンリにも少なからずあることだけど、東京序盤のあきかずのアンリはめちゃくちゃそれを感じていたのを思い出しました。あと、アンリの野望も少し垣間見えた。「ビクターが生命創造の歴史に名を刻む時は自分の首がいい」という野望。

 

そんなアンリの首をもぎ取ってビクターが自分の夢(欲望)を叶える(満たす)ために創り出した怪物の悲劇は重く苦しかった記憶があります。

正直直視できませんでしたし、あまり記憶がありません。序盤は基本2幕冒頭〜カテコまで記憶なしです。(笑)

まぁ私自身の気持ちの問題もありましたが。(アンリが好きだったので、2幕はある意味ビクターと同じ目線で怪物から目を逸らしていたのかもしれません。)

なので、このアンリが怪物になって云々みたいな話はできません。過去に戻れるなら自分へきつく言いたい、ちゃんと覚えてメモしておけと。

懺悔しても時は戻せないので、この辺りはDVDでのお楽しみとしてそろそろ話を戻します。

 

すごくビジネスパートナーだった、というか距離感のあった2人がなぜ生命創造を成功させたのか。

序盤は

利害の一致した「君の夢の中で」

ビクターの欲望が渦巻く「偉大なる生命創造の歴史が始まる」

ビクター・フランケンシュタインの”孤独な”挑戦の物語

 

だったあきかずが

 

未来を見据えた完全合意の「君の夢の中で」

ビクターとアンリが夢を見た「偉大なる生命創造の歴史がはじまる」

ビクター・フランケンシュタインとアンリ・デュプレが神に挑み起こした”奇跡”の物語

へと変化した要因。

 

 

中川ビクターが孤高の天才から人間界へ足を踏み出していた

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。 - GO MY WAY !!

 

私はこれ以外の理由を見出せません。

ずっと独りで神に挑んでいたビクターが、アンリ・デュプレという少しだけ特別だった人間と夢を共有し同じ未来を見る喜びを知った、自分が特別であることを自覚した上でそれを理解し連れ添って背中を押してくれる”友”の存在を知った、それによって自分が持っている以上の力を出すことができると知った。

アンリもビクターの背中を追いかけてビクターの夢の一部になるのではなく、ビクターに追いついてビクターの少し後ろから同じ光を見つめる、ビクターと同じ夢を見て、生きていても死んでもビクターの背中をしっかりと押し2人で神に挑み勝とうとした。

 

2人が互いを想い合い、”愛”を知り始めた。そこから光が強い「フランケンシュタイン」になり始めた。

ここで「愛」という言葉の話を。

 

>>「愛」(大辞林より抜粋)

1.対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。またその気持ちの表れ。

2.相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。愛情。

3.何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。

4.キリスト教で見返りを求めず限りなく深くいつくしむこと。

 

あきかずは1の意味の「愛」に気づいて、認めて、互いを愛することでより強くなった2人。

1+1=2だけではなく10にも100にも1000000にもなれるなんだなって思わせてくれた。

 

まず1/23でその一歩を踏み出した。

今までは嬉々として首を差し出してやるよ✊🏻な君夢でしたが、アンリ側がビクターと離れがたい雰囲気を纏っていたし、ビクターも本気で(と言ったら今までがそうじゃなかったみたいになりますが、そうではなくて)アンリという人間を失いたくないという気持ちがあった。

でも土台(君夢前までで関係性も築けていて、同じ方向を向いているという意味の土台)がしっかりできているので、互いに失いたくないという気持ちはありつつもアンリは夢に向かって挫けず進んでいってね。ってビクターの心に夢を託してビクターの背中を押して去っていくし、ビクターももちろんアンリと共にずっと夢を見ていたいと思っているけどアンリの望みも理解をしていて、辛いながらも受け入れて夢をしっかり託されて自分の心にアンリ・デュプレを生かして前に進もうとするビクターになった。

再演のあきかずを見てきて初めてお互いから相手を想う気持ちがバシバシ伝わってきた君夢だった。その日のふせったーによるとアンリは少し泣きそうというか鼻すすってビクターとの別れを嘆いてる風君夢だったし、そのあとの偉大なる〜でビクターが怪物に対して初めて「起きろ、アンリ」と言ったのを聞いた公演だった。

 

実際に1/23は生命創造自体は完全な成功とは言えなくて、生み出した怪物の中にはアンリが全然いないように感じて、それにビクターもダメージを感じていたようだった。

でも、ラストシーン怪物が倒れた時の顔は間違いなくアンリ・デュプレで、空を見上げながらアンリと呼んだビクターにはアンリが空に抱かれる瞬間を見ていたし、空に抱かれたアンリはきっとビクターに優しく微笑んでいた。

そんなアンリを最後に見れたビクターは幸せそうで、次こそは成功するなというか、この2人が放つ光が強くなったなと感じたし、空を見上げてアンリを呼ぶビクターの顔が本当に幸せそうだったからすごく印象に残っていて。(ちょうど二階だったからよく見えたのもある)

すごい絶望の物語のはずなのに、ビクターもアンリもよかったね(;_;)ってなってラストシーン泣く日が来るとは思わなかったし、まさか本当にビクターとアンリが神に勝つなんて想像してなかったけどそんな兆しがあった日。

 

そしてかっきーさんビクター×あっきーさんジャックのSP公演を経て迎えた1/26マチネ。あきかず東京ラスト2回だったその日に奇跡は起きた。

(1月26日は勝手にあきかず偉大なる生命創造の歴史を始めた記念日としています。)

 

まずビクター→アンリの憧れがより一層強くなっていた。ビクターがアンリ・デュプレという人間を尊敬していた。ふせったーにも書いていたけど、この日のビクターはアンリの論文を擦り切れるほど読んでいて、戦場をくまなく探し回ってやっと見つけた!!!!!という感じ。

アンリ自身もビクター・フランケンシュタインという名前を認識していたからこその拒絶だったし、アンリが序盤頑なに協力を拒否していたことで、よりビクターの夢に魅せられた後の信頼感と崇拝感が強くなっていたのかなと。

論文上で憧れていたアンリが自分の夢に共感してくれて同じ未来を見てくれるとなった時の幸せそうな顔が忘れられません。ほんと威厳ある大尉のはずなのに幸せオーラを全身に纏っていた…。

自分のレポ読み返すとこの日のビクターアンリめちゃくちゃに仲良くてお互いしか見えていなかったようで、結局それって信頼の表れだと思うし、”愛”しあっていたが故の行動だったんだと思うんだよね。

(酒場で仲直りが早いとか、ルンゲ来た時も二人の世界だとか、アンリの手を握ったままルンゲに近づいていったとかもろもろね)

 

「生命創造という夢を100%共有していて、2人でなら成し遂げられるけど2人でないと成功しない。(♪僕は殺人者のビクターは)アンリが横にいないと成功しないって理解をしていてそれでも足が動かないことを嘆いているビクターに見えた。アンリ自身も2人でないと夢の実現ができないと理解していて運命は受け入れているけど、少し離れ難そうな雰囲気がある。アンリの考え的には「ビクターの夢の中で生きられるから2人だ、大丈夫」だったが、自分がビクターに夢を託していないから不安。」

(より一部抜粋・編集してます)

 

その不安を君夢で払拭した2人は強かったんだよ、本当に。

何がって聞かれると難しいけど、「運命」を受け入れて、その運命を変えようとした力なのかな。

アンリの君夢の笑顔も自分が死ねる喜びというより、ビクターの夢の中でまだ生きていける、新しい世界でビクターと夢を見るんだという雰囲気で、今まで感じてた”狂っている”という感覚がなくて。

2人の気持ちが同じ方向で通じあったらこの曲の雰囲気ってこんなにも変わるのかと思ったし、その後の♪偉大なる〜は今まで以上にヤバくて本気の目をしていたビクターだったし、天にいる神に喧嘩を売って、俺はこいつ(アンリ)とお前に勝ってやる!と言うようにアンリをずっと見て語りかけていた。(一番やばかったのは大阪大千穐楽のビクターだったけど)

 

この日以降のビクターは怪物が自分の傷を的確に抉ってくることでアンリは生きていると認識しているんだなと思ったんだよね。

フランケンシュタイン家の関係を理解していたのは偶然じゃないだろうしそこまでビクターの実験日誌に書いてあるとは思えなくて。(多少は書いてあると思うけど)(原作では偶然出会った子供の名前がフランケンシュタインで殺したとあったけど、怪物が起こしたステファンの死とエレンの話は偶然ではなくどう考えても仕組まれたものだし)

ジュネーヴ市民が過去にも集団心理でビクターの周りを狂わせていることを利用してエレンを間接的に殺したことなんかは、ビクターの亡霊の話を聞いていたアンリだからこその復讐としか考えられないし。

怪物からの罰を受けて彼を怪物と呼び恐怖の対象にしたことを全力で後悔した上で、アンリとの夢の続きを見に北極にやって来たビクター。

怪物的にも復讐をやりきったし、アンリはアンリで怪物の成長を間近で見ていてそこからビクターとともに夢を見ていたし、ビクターもまだアンリと夢を見ているので、ビクターがアンリと呼んだ時に生き絶えた(と思われていた)はずの怪物は右手が動いたし顔が笑ったし、ビクターもそれに気づいて神に対しての勝利宣言(♪俺はフランケンシュタイン)だった。

それが中川ビクターと加藤アンリの起こした最初の奇跡。

 

初めて見た日は幻かと思った。倒れた後の怪物が動くなんて今まで見たことなかったし、あそこで怪物もビクターも死にたえると思っていた。アンリがいるいない問題はあれど、ビクターの呼びかけに対して明らかに反応したことはどこの回でも見たことがなかった。

 

さすがに幻覚かと思って公演後他の人の感想を漁りまくりました。

そこで確信に変わった。あきかずは愛を持って運命に刃向かったのだと。そして神に勝ったのだと。

 

あきかず、別名ハッピーエンディングペアはそのあとも神化を続けました。

 

2/15はアンリ・怪物役が史上初のマチソワだったこともあってか、ビクターが引っ張ってやるぞ!感が強かったし、実際にアンリのことをガシガシ引っ張っていく(本当に歌でも芝居でも”引っ張っていた”という言葉がピッタリなくらいだったんです。)

いつも太陽な中川ビクターですが、この日は太陽すぎた。闇も神も追い払って光の世界を創り上げる太陽神中川ビクターの光の強さに魅せられてフランケンハイになって謎のテンションをかました加藤アンリ/怪物が起こした奇跡はまた1/26とは違っていて、1/26は2人で成し遂げた奇跡、2/15はビクターが起こした奇跡だったんだろうな。

 

こんなに生命創造しているぜ〜!と紹介している後半のあきかずですが私が見た中で切なく脆く儚かったあきかずが東京楽です。

東京楽はより人間に近づいたというか、人間としてアンリと向き合い人間として精一杯アンリと関係を築いたビクターだったし、アンリもアンリで人間であるビクターと人間として向き合って友としてパートナーとして支えた。きっといろんな状況や要因が重なっていたんだと思うんだけど、すごく繊細で脆くて人の痛みにすごく敏感で互いに離れたくないと思い合う2人がいて、また生命創造成功とは違った方向性のあきかずだったし東京楽はエンド的にはバッドエンドだったと思うけど、2人は幸せだったし、それは東京公演の積み重ねが見せた新たなフランケンシュタイン(あきかずver)だったなと今振り返ると思います。

 

そんな2回の生命創造成功と1回の脆くて人間らしいビクターとアンリのフランケンシュタインを経て迎えた大千穐楽は2人で成し遂げた奇跡の集大成で。出逢う前から相思相愛だった2人が出逢って同じ夢を見て同じ歩幅で挑み戦うと、神にだって勝てるし新たな世界を築けるんだなと、人間の可能性というものをすごく感じた大千穐楽だったのを覚えています。

それこそ和樹さんが稽古場の挨拶とか、東京初日の挨拶で「絶望の中にある希望見つけてくれれば」なんておっしゃっていたけど希望見つけました!!!って感じです。

 

3回データを吹っ飛ばして嘆いた()大千穐楽のふせったーでも話したけれど、強い愛で結ばれた2人は離れていても(アンリが怪物になったあとの話)どこかリンクしているようだったんだよね。そんなの感じたの最初で最後だったけれど。

愛が2人を魂レベルで簡単には解けない糸で結びつけて、引き寄せあった結果、彼らを結びつけた愛は神にも勝てる力を2人に与えたし、実際に有終の美を飾った。

2人で神に勝ったあきかずなので、ずっとビクターとアンリ(怪物)の話をしてしまうのですが、ここで少しジャックと怪物の話を。

 

中川ジャックは基本エヴァちゃんの尻に敷かれていて、臆病で、怪物を痛めつけるのにも心が痛む?というか躊躇が見えるのって、中川ジャックがジャックとしてあの闘技場来る前は普通に人間として生きていて、でも偶然の巡り合わせでエヴァちゃんと出会って性格が変わったというか、社会の底辺まで転がり落ちた感が強くて。

人間の性格ってもちろん生まれ持ったものが土台にあるけど、どうしても生活している環境で良い方にも悪い方にも変わるものだと思っていて、中川ジャックは変わってしまった人間なんだろうなと思う。

中川ジャックはエヴァちゃんが全てだしエヴァちゃんに尽くしたいという”欲”だけで生きている。だからエヴァちゃんの望みならなんだってするし、エヴァちゃんが闘技場とお金のこと大好きだから、ジャックも好きになる。

だってエヴァちゃんの横にいる中川ジャック、めちゃくちゃ幸せそうな顔してるもん。ブチ切れられてもヘラヘラしてるしな。それでいてエヴァちゃんもジャックちゃんのことをボロクソに言いながらも好きでいてくれているのを感じるから、ここはきちんと夫婦なんだなって思う。

 

でもやっぱり良心というか転がり落ちた人だから、試合を見て人が殺し合うのは慣れたけどエヴァがカトリーヌ痛めつけるあたりとかはエグくて見ていられない(セルフモザイクしてる)し、こっそり逃げようとする。あとカトリーヌを痛めつけながら楽しそうに笑うエヴァちゃんも見たくなかったのかなってちょっとだけ。(エヴァ自身はもともと闇の世界の人間で、”普通”の社会を知らないから、闘技場みたいなところに違和感も感じていないし、社会の底辺で生き残るためにここまで上り詰めてきたのだと思うので、カトリーヌを痛めつけて笑うエヴァと自分との根本の違いを目の当たりにしたくなかったんだろうなって)

 

とにかく中川ジャックはひたすらに弱い人間だった。ここがビクターとの共通項の1つだと思う。

 

あとは全てを捨ててでも追い求めたいものがあるというところかな。そこはアンリとかジュリアとかとも共通しているところだと思うけどとりあえずビクターとジャックの話を。

ビクターは言わずもがな、生命創造という夢を追い求めて端から見れば「友人の首をもぎ取ってまで」叶えたかった夢。ジャックは先にも話したようにエヴァとの未来。

ジャックってパンフレット上の表記は「Jacques」と人名なんだけど、響き的には「Jack」と同じで、「Jack」って日本でいう「太郎」みたいな位置付けで特定の誰かを指すこともあるし、不特定多数や誰かわからない人を指す代名詞みたいな意味合いもあるという話を聞いたことがあります。

 

中川ジャックはきっと以前はジャックではなくて、他の誰かであって、エヴァとともに生きるために全てを捨てたんじゃないかなって今は考えています。その時に過去の名前も捨てて「Jack」と同じ響きで、でも”個”として主張できる「Jacques」という表記で生きることにした。

そう考えるとめちゃくちゃ強欲ですね、ジャックもビクターも。

でもそれが生きている世界、環境、社会的地位で崇高なものに見えたり、”おぞましい”ものに見えたりするのって不思議だなと。(いやそう見えてるのって私が客席から観ている傍観者だからであって、中の人(民衆たち)から見ればどちらも”おぞましくて気味が悪い”ことなのかな)

弱いくせに欲深い社会的地位だけが真反対のビクターとジャックをあきかずのあっきーさんが演じることで、まっさらな怪物に感覚的な部分でビクター・フランケンシュタインを思い出させるんだろうし(思い出すという表現が的確かわからないけど)、和樹さんの怪物は吸収力が高くて純粋で感覚派な怪物だと私は思っているので、ビクターと重なる部分を持つジャックが自分を痛めつけて、そのジャックから初めて自分の生まれのことを聞き怪物と罵られることで、ただ自分を創り出した創造主としてだけではなく「なんとなくムカつく」みたいな感覚が闘技場に来てからずっと蓄積されていたんだと思う。

 

ビクターの面影を残すあきジャックやエヴァちゃんに痛めつけられ見世物にされ少なくとも人としては扱われてこなかった怪物の中に蓄積された怒りを爆発させる引き金になったのはカトリーヌだったと思う。(中川ジャックの時は両怪物ともカトリーヌが引き金なことが多いけど、あきかずは特にその印象)

 

加藤怪物について吸収力が高くて純粋だと前述しましたが、だからこそカトリーヌの感情(特に愛情)をまっすぐ受け止めたし、その”愛”に触れると首から上の人の記憶が顔を出してくる。カトリーヌの「人間として生きたい」という感情に触れたからこそ怪物自身も「人間」として認められ生きていきたい、怪物ではなく何者かとして認識されたいと思ってしまったんだろうし、その思いが芽生えてしまったことで余計カトリーヌの欲を追い求める姿と追い求めた結果通じ合っていると思っていた人からの裏切りその一つ一つが大きなとげとなって加藤怪物に刺さるし、彼女から「バケモノ」と呼ばれジャック達から”捨てられた”ことが導火線となって加藤怪物の復讐スイッチに火がついたのだと思う。

 

あきかずの加藤怪物は最初の段階で「怪物」と呼び捨てなければビクターと2人で幸せになれたし、どこかで誰かが彼を個として認めていれば違う人生があったんだろうなという気持ちで、救いの道が見えているぶん夢が全て壊された加藤怪物の憎しみが苦しくて辛い。そしてなによりあきかずの怪物は痛々しいんだ、すごく。それは怪物自身の痛みでもあるし、もしかすると怪物の中で顔を見え隠れさせているアンリの痛みも混じっているかもしれない。

とにかく怪物の痛みが客席まで鋭いトゲになってピシピシ飛んでくる、そんな感覚だった。

 

感覚派だけど知能の高かった加藤怪物は辛さの反動で復讐していて、でもどこかで自分の物理的な創造主(ビクター)と肉体的(もしかしたら精神的になのかも)な創造主(アンリ)の存在と結びつきを理解していて、自分がそれに抗えないのもどこかで理解している。だから自分の痛みをビクターに思う存分ぶつけて返し切って、ある意味清々しくビクターに殺されていく怪物にどうしても幸せな人生を歩んで欲しかったな、という気持ちになるし、逆にそういう怪物像でなければあきかずが生命創造を成功して神に勝つなんてことは100000%ありえなかった。

 

最後にもう一つだけ。あきかずが生命創造を成功させたとき♪偉大なる生命創造の歴史が始まる

「今目を覚ますのだ新しい命よ さぁ立ち上がり 見ろこの世界を」

 の後に「起きろ(起きてくれ) ”アンリ”」と怪物のことを「アンリ」と呼んだことについて少しだけ考えたいと思います。

 

ここって柿澤ビクターとかそれこそ序盤のあきかず回とかあきこに回も含めて、特定の名前を呼んでいるのを見たことがなくて。

ここで「アンリ」と呼ぶことで、怪物の脳に聞かせている(聞こえているのかは不明だが)んだろうし、神に対しても「アンリ」とともにお前(神)に挑んでいるんだぞという意思表示でもあると思うんです。あくまで推測ですけど。

アンリの首を使って自分の夢(生命創造)を叶えようとするビクターの精神状態って当たり前だけど普通じゃないだろうし、「アンリ」という言葉が自分を奮い立たせる魔法の言葉であると同時に自分の罪、心の痛み、恐怖というものを自覚させる呪いの言葉でもあって。だから普通は口にできないと思う。実験日誌にも文字として書くので精一杯。

そんな言葉を口にできるほどの意思の強さというか、夢見る力の強さが、あきかず生命創造の歴史を始めて作り上げたんだろうなって。

 

結局愛があれば運命に抗えるし、神にだって勝てると証明した正真正銘の太陽だった2人はきっと世界を変えて神になるんだろうなって。

本当に希望の光で満ち溢れたラストシーンを見せてくれた唯一無二のペアに最大級の感謝と敬意を表して。

 

 

 

 

 

第2章 「盲目〜君がいるから十分さ、共依存かきこに〜」

>>「盲目」とは他のものが目に入らず理性的な判断ができないこと。

 

 

 

3周回ってハッピーエンドな柿澤勇人×小西遼生ペア。唯一対等な友人として向き合ったビクターとアンリ。そんな2人が生み出した絶望に絶望を重ねる絶望の物語。

あきかずを光とするなら、ここの2人は闇。けれど同じ方向を向いている2人の話。

 

公演中もずっと言い続けていましたが、一般的な「友」という言葉が一番似合って「共依存」の代名詞であるかきこには本当に2人で1人すぎた。

自分の弱点をお互いに補い初めて1人の人間になった2人は出会うべくして出会った感が強くて。

確かにただ一つの未来の前半くらいはアンリめちゃくちゃ反対しているんだよね、理論的で冷静なイメージのある小西アンリが感情的になるくらいに。

でもそれ以上にお互いが惹かれあっていて、全力でぶつかって殴り合った結果同じ未来を夢見た2人なので100%以上の信頼をしあった。そして生まれた「共依存」。それこそが彼らの特徴というか、かきこにが創り上げるフランケンシュタインのテーマな気がしています。

 

一番人間らしく定められた運命に振り回され狂わされた2人でしたが、最終的には2人で死んでいけたことが幸せというか、2人でいれば彼らはどんな世界だって幸せだったんだろうなって。

 

先日のブログでも少し話をしましたが、彼らにはもともと階級とか生まれとかそういう人間が縛られているものに縛られず「人と人」として出会って向かい合ってぶつかって互いの強さも弱さも全部見せ合って依存して背中を預けあった。今までの人生お互いに「友」と呼び合い同じレベルで話し合いをできる人間と出会ってこなかった2人があの戦場で出会ったから「人の弱さ=死」を克服して死のない新しい世界を築き上げたいと夢をみた。

何よりもビクターとアンリの2人が離れなくて良い世界を作りたいと思った。

それくらいお互いしか見えてなくて、愛し合っていた2人を引き剥がした運命が憎い。

 

柿澤ビクターはずっと孤独で、でも甘えたがりで寂しがりやで誰かに理解して欲しかった。ビクターが抱える孤独という恐怖をアンリ・デュプレという自分の唯一の理解者(だと思っている)で振り払っているし、小西アンリは自分の勇気のなさというか大事なところで一歩踏み込めない臆病な部分をビクターの夢を追い続ける強さに引っ張られることで見えないふりをした。

2人でいるときは何にでも勝てる!無敵状態な2人ですが、離れてしまうと途端に「弱く脆く」なってしまう。そんな不安定さがこの2人はどこまでも人間なんだなって。

 

酒場シーンでも毎回毎回楽しそうに2人で盃を交わしていて、この2人は酒場シーンが楽しそうであればあるほどその先がしんどい。いや基本どのペアでもそうなんだけど、かきこには異常なくらいしんどい。

あと小西アンリってめちゃくちゃ優しいですよね。ベロベロに酔っ払っている柿澤ビクターと目線を合わせているのがすごく好きでした。ビクターが悲しければ悲しいし、ビクターが楽しければ楽しい小西アンリはどんなことがあってもビクター最優先だし、ビクターの幸せのためならなんだってする、それくらいビクターに惚れ込んでいた。きっとビクターと一緒にいることでジュネーヴ市民の目線も冷たかっただろうけどそんなことは一切気にならないというか見えてないアンリだったし、ビクターはビクターでアンリが大切すぎて大好きすぎてずっと一緒にいたい感が強いし、構って欲しくてわざとごねてみたり真面目な話からくだらない話までずっと話していそうな雰囲気で。

あとこの2人、仕草の真似や似た表情をすることが多くて。そこが2人で1人だなって強く感じさせる要因の一つだったんだけど。

私の中で一番印象的なのはかきこに千穐楽の酒場シーン。

「ルンゲが脳を手に入れたと言った後右ほほを右手で叩きながらルンゲに近寄るビクターと、左頬を左手で叩きながら近寄るアンリ。」

より引用。

 

偶然なのか2人の演技プランなのかそこは私たちにはわかりませんが(ぜひオーコメで語ってほしい)こうした何気ない仕草が2人は魂と魂で繋がっているんだという事実を突きつけてきた。

そんな2人の君夢は「別れ」感が強くて。当たり前なんだけど。

 

2人で1人で互いに支え合っているからどちらかを失えばもう片方は立っていられない。だからアンリはこうなってしまった運命を呪いながらもその時点で取れる最良策としてビクターの夢の中で生きると伝えるし、ビクターはビクターでアンリを自分の夢の中で生かすために生命創造する。

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。 - GO MY WAY !!

 

と先日話しましたが、ビクターが殺人を犯してしまった事実は動かせないし、だからと言ってビクターが死ぬところを見られるはずがないし、ビクターのためならなんでもするアンリなので、ビクターをかばって代わりに罪を被るのがアンリ的にはその時にできる最良の選択で。人殺し(しかも2人)が重罪でほぼ100%死刑になることも理解しての行動。でもアンリももちろんビクターと「生きていきたい」とこの時点で既に思ってしまっているので、どうしても運命を呪ってしまっている。それが♪人殺しで民衆に罵られている時に出てしまう。あと小西アンリは優しいから自分たちの研究のせいで犠牲になったウォルターの気持ちとか、ヘッセン夫人の心の痛みとかそういった感情にも心を動かされているというか、しっかりこうした感情がアンリの胸に一つ一つ刺さっているんだなと感じる。

 

ビクターはビクターでアンリの首が欲しいという気持ちも少なからずあるし、アンリの首でアンリと一緒に新しい世界を作るんだという夢も諦めていない。ただその気持ちよりもアンリと離れたくない、アンリがいないと生命創造という夢は実現しない、何よりアンリを死なせたくない(しかも自分のせいで)という思いの方が強くて、でも自分でも止められない生命創造への欲望もあって何が何だかわからなくなって苦しんでいる。

きっとビクターのそんな状況もアンリにはお見通しだったんだろうし、アンリの心情もビクターには見えていたんだと思う。だから真実を証言しに行った。そこで事件後初めて顔を合わせた2人はともに運命を呪っていたし、罪人と証言者という立場であの場にいたわけだけど、お互いが引き寄せあっていたというか、互いに「離れたくない」って強く思っていたことを再確認してしまったんだよね。

 

だから「別れ」の強い君夢になった。

アンリは必死に自分の寂しい気持ち(=弱さ)を隠して作った笑顔をビクターに向けて「笑ってよ」って伝えるけど笑えるわけないよね!?って。

小西アンリにとって柿澤ビクターは太陽で、生きる光で、自分の存在価値だった

。そして何よりかけがえのない「親友(互いに信頼しあっている友達)」であり「心友(心から通じ合っている友達)」であった。(どちらの言葉の意味も大辞林より)

でもそれって柿澤ビクターにとって小西アンリの存在も同義で。

アンリがいたから夢を見続けられたし、夢に向かって歩くことができた。そしてアンリとともにならその夢を叶えられると心から信じていた。

 

そんなアンリの「一緒に夢見れるなら死んでも後悔しない」ってやっぱり信じられない。嘘だよね?って今でも思う。加藤アンリと比較してビクターとともに生きることにしがみついているように見えたから。

ただ現実は変えられないし、どうにもできない。だったらビクターの夢の中で生きていく。という気持ちの折り合いのつけ方というか、ビクターにいい聞かせていると同時に自分に言い聞かせている、アンリの心の痛みが伝わってくるのがかきこにの君夢。

だから二人とも涙でべっちょべちょになるし、観客も涙を流して2人を引き裂く運命を呪うしかない(少なくとも私はそうするしかなかった)

 

あと小西さんの持つ脆さというか不安定さっていうんですかね?それが小西さんの描くアンリにすごくあっているなってずっと思っていて。(不快にさせてしまったら申し訳ないです)

もちろん怪物にも同じことが言えるのですがとりあえず先にアンリの話を。

スマートで強いんだけど深くて暗い闇を抱えてどこか脆くて儚くて崩れてしまいそうな小西さんのアンリが歌う君の夢の中でって、再演の和樹さんみたいに力強かったら成立しなかったというか、もちろん和樹さんには和樹さんの創り上げるアンリ像があってそのイメージにピッタリはまった君の夢の中でだったし、逆に小西さんには小西さんのアンリ像があって、小西さんが元々持っている繊細さがよりアンリ像を深めているなという話なのでどっちが良い悪いとかの話ではないんですけど。

アンリの揺れ動く心情とか、弱さというのを小西アンリからものすごく感じていて好きでした。

 

そんなアンリの死によって気の狂った柿澤ビクターはとにかく痛々しくて。衝動だけでアンリの首をもぎ取ってアンリを蘇生させようとする。生命創造への興奮ももちろんあるけれど、アンリを失った悲しみから目を背けるための狂気という感覚。すごく怖くて痛々しくて苦しい♪偉大なる生命創造の歴史が始まるだなって。

 

ふせったーとかでも散々話しているけど中川ビクターは生命創造という夢に向かって大切な友人アンリの首を使って実験をして成功を夢見ているけど、柿澤ビクターは大切な友人アンリを生き返らせるために生命創造を夢見ているので、神に喧嘩を売っている中川ビクターとは違って神に救いを求めるように「神よ祝福を」って柿澤ビクターは歌うのがまた面白いなって。

めちゃくちゃアンリのことを思っていて痛いくらい生き返って欲しいと願うビクターの目の前に生き返ったアンリ(の顔をした怪物)に最初はすごく嬉しそうな顔をするのに、アンリじゃないとわかった瞬間絶望に苛まれて生きる意味を失った、アンリ戻ってきてくれ頼む!!!みたいなビクターを見ているのがしんどくて、かきこには1幕終わりが一番しんどくて立ち上がるのに時間が必要なペアでした。

 

さてここで倫理が死んでる(by友人)柿澤ジャックの話を。

ジャック(特に柿澤ジャック)が怪物を痛めつける様子はかなり好き嫌いの分かれるというか、ダメな人はとことんダメなシーンだと思います。でもジャックが怪物をあそこで人として扱わずひどい仕打ちをとことんすることによって怪物は自分が人間ではなく怪物であることを自覚するし、人としては生きていけないことを理解する。そして人間が欲望に弱いこと、「自分のことしか考えていない」こと、醜く汚い生き物であることを怪物に示し、そんな人間から「怪物」と呼ばれ差別されることで怪物の憎しみ怒りその他諸々を増幅させる。

怪物がビクターへの復讐を決意し企てていくためには外せないシーンだと思います。

 

第1章で中川ジャックは(エヴァのために)全てを捨てたという話をしましたが、柿澤ジャックは(エヴァのためかどうかではなく)全てを捨てざるを得なかった人間なんじゃないかなと。

ここで大事なのはジャック自身に意思があって社会の底辺に落ちてきたのか、不可抗力で落ちてしまったのかの差。柿澤ジャックは明らかに後者であると感じていて。

 

というのもエヴァとの距離感が中川ジャックよりもあって、ビジネスのためというか生き残るために夫婦になった感が強い。中川ジャックとエヴァの闘技場の当主は実質エヴァなのに対して、柿澤ジャックとエヴァの闘技場の当主はジャックなんだよね。

だからエヴァに商品の管理をしろと怒られたことに対しても怒っているように見えたし、なんだろうエヴァと仲良くしているのが上っ面に見えるのが柿澤ジャックで。

 

一見楽しそうに快楽に身を任せて怪物をいたぶり抜いてるジャックだけど、本当は闇を抱えていて寂しい人なんじゃないかなと思っていて。

全てを捨てざるを得なかったジャックはきっと、この世界(社会の底辺)に落ちる前は幸せな暮らしをしていた。ビクターの実験日誌を読める=字がわかるのである程度の教育を受けられる家庭で育っている。でもそこから何かしらの理由でその生活を失い家族も友人も失い名前も捨てざるを得なくなった。(おそらく人間の欲望に巻き込まれて家を根本から破壊されてその生活を維持できなくなった。原作に出てくるような没落した貴族説もあるなと思っている。)

だから自分をどこの誰だかわからない転がり落ちた名もなき人間という揶揄を込めて”Jack”という響きと同じ”Jaqcues”と名付け、人間(特に上流階級)に対して復讐するように、闘技場の当主となり彼らから金を搾り取っている。その金で自分が生きていくことが自分の過去への復讐であり、 ここまで落ちぶれた自分を嘲笑っているようにも見える。

そして闘技場で戦士や怪物に対して自分の悲しみや怒り、虚しさをぶつけるように痛めつけ笑う。社会の底辺に転がり落ちたその出来事がきっかけで狂ってしまったジャックは、アンリを失って狂ってしまったビクターと重なる部分があっって見ていてすごく苦しくなる瞬間があった。

 

どこか自分の運命を嘆いていて、でも自分の力ではどうすることもできない。あときっと柿澤ジャックも本当はすごく弱い人間だったと思う。それを隠すようにひどいことをして笑っている。それしか彼が生きていける道はなかったんだろうし。

その過程でエヴァと出会って、思惑というか利害が一致したから夫婦になってあの闘技場をステファンから借り受けた、というのが私の中のざっくりした柿澤ジャックの過去話。

 

そんな柿澤ジャックにいたぶられる小西怪物はジャックから自分の生い立ちをあんな形で聞かされた上に、怪物だバケモノだと罵られ、人ではなく物体として扱われたという事実に対してももちろん怒りというか憎しみを抱いているけど、それよりもなぜ?という気持ちが大きかったのかなと。

だからカトリーヌと気持ちが通じあったことが嬉しくて仕方がないし、小西怪物はカトリーヌだけを個体として認識しているようにも見えた。

あまりご主人様には執着していないというか、ジャックにいたぶられたことがベースにあるけど、カトリーヌという存在が自分の理解者であることを理解していたし、きっと怪物の中ではカトリーヌも自分と同じでどこかで人間ではないと思っていた。だからこそカトリーヌの人間臭い裏切りがめちゃくちゃなダメージになって。でも小西怪物って小西アンリと同じで優しくて、裏切られてもなおカトリーヌを求めてしまっているんだよね。チューバヤに倒されてからもずっとカトリーヌに手を伸ばしているし。だからカトリーヌをいたぶった人間に対しての憎しみが湧いたんだろうし、あの闘技場に火をつけたんだと思う。

 

怪物としてはカトリーヌに裏切られてカトリーヌを失って”孤独”という癒せぬ痛みを負った。 

 

それと同時に怪物の中にいるアンリも痛みを負っていて。

加藤怪物はアンリとスイッチングしているけれど小西怪物はアンリと共存していると話したことがあると思います。

共存しているので、ビクターと同じ顔したジャックにいたぶられること、ジャックがビクターと同じ弱さを抱えていること、自分とビクターが生み出した怪物が痛みを負っていること、全てに対して苦しんでいる。

 

♪俺は怪物で涙を流しているのはもちろん大部分は怪物としてだけど、どこかにアンリとしての苦しみも混ざっているんだろうなと。

優しい小西怪物が夢の続きを生きていることもわからず「夢の続きを生きてみたい」と切実そうに歌うのが本当に辛いし、本当に小さな幸せを求めていたのにそれすらも奪われて孤独を嘆き生まれてきたことに対して憎しみを抱く小西怪物は可哀想が大きすぎる。

 

生きたかったアンリと生まれてきたことに対して憎しみを抱く怪物が共存する小西怪物はビクターを徹底的に傷つけて追い込んで孤独にすることで復讐をするし、アンリが自分の中に共存していることを自覚してビクターが苦しむ映像を見せることでアンリに対しても復讐する。復讐している怪物の後ろに顔を歪めるアンリが見えるんだよね、小西怪物の時は。

 

ビクターにもアンリにもその復讐がめちゃくちゃ効いてめちゃくちゃ反省することだけが小西怪物が唯一救われるところだなって思う。だからこそ小西怪物は最期にアンリがビクターとともに死んでいくことを許したんだろうし。

 

と先にラストの話を出してしまいましたが少しだけビクターとアンリの後悔と反省の話を。

 

そもそも柿澤ビクターは常々話している通り、アンリの死で気が狂って誕生させたのが怪物だと知った瞬間までに2回くらい(精神的に)死んでるので、エレンとの仲直りもジュリアが半強制的にさせたし、ステファンとの和解もジュリアが半強制的にさせたし、ジュリアとの結婚もなし崩しというかジュリアに言われるがままになってそうだとずっと思っていて。中川ビクターはエレンともジュリアともしっかり向き合っている感じがあるんだけど、柿澤ビクターは心ここに在らずというか、確かにジュリアのことも愛しているしエレンのことも大切だけど、そんなことよりもアンリ(怪物)という感じで。

失って存在の大きさに気づく柿澤ビクターはどこまでも人間らしいなって。失って大きさに気づいて絶望して殺せ!!!となる。

でも自分で死ぬ勇気のない弱い人間なので怪物に「頼む殺せ、もう生きていたくない」と迫る。それが余計怪物の怒りを買ってしまうんだけど。

ジュリアまで失って初めて自分の弱さに気づいて涙を流して後悔する柿澤ビクターを怪物はわかっていてビクターに気づかせたんだと思うし、「自分が弱い」という事実をビクターがここで知ることで、より後悔するというか絶望することも理解をしてこの順番で大切なものを奪って復讐したんだろうなと。そこは対柿澤ビクターの加藤怪物にも共通することだけどね。

 

怪物の中にいるアンリはその過程を間近で見て、自分の気持ちだけでビクターを狂わせ傷つけ苦しめたことに苦しみ、そうして生み出してしまった怪物が受けた傷に苦しみ後悔し反省した。そんな優しいアンリを怪物は認識していてめちゃくちゃに後悔して反省したからこそ、怪物は納得したし、だからこそかきこに的ラスト(最期は2人で死んでいく)が生まれた。

 

小西アンリも小西怪物も本当に優しいんだよね。

だからビクターの足を刺すときも必ず死んでいけるようにしっかりと刺すし、ビクターに最後の復讐としてわざと煽って自分を撃たせてビクターにアンリを二度殺したという絶望を植え付けられて、自分(怪物)もビクターに殺してもらえてもう満足、という感じで最期はアンリに譲ったというか、アンリのことを3年以上近くで見続けてきた(というかともに生きてきた)怪物はアンリがずっとビクターを求めていることを知っていて最後に怪物が見せた優しさがアンリをビクターと再会することを許した。

だからアンリとビクターは最後に2人で会うことができて、2人で死んでいけた。きっと行き先は地獄だと思うけど、ビクターの目的はアンリの蘇生だったし、アンリと再会して共に生きることだったから、あそこでアンリに出会えてビクター的にもハッピーエンドだし、アンリもアンリでビクターを求めていたから最期にアンリとしてビクターと向き合うことができてハッピーエンド。

怪物も自分の創造主(ビクターとアンリ)両者に復讐を完璧に成し遂げて最期はビクターに殺してもらえてハッピーエンドだから、結末的にはバッドエンドだけど3周(3人分)回ってハッピーエンドなんですよね。

 

かきこには2人でいられればそこが楽園なのできっと地獄でも幸せに過ごしているでしょうし、小西怪物も2人とはうまくやってるんじゃないかなって。

 

対等な友達、そして信頼して背中を預けあった2人はどこにいてもどんな状況でも最終的には2人で生きていけると教えてくれたかきこにに乾杯。美味しい酒でも飲みながら楽しく2人で暮らしてください。

 

 

第3章 「齟齬〜愛が目を隠し双方が道を誤ったかきかず〜」

>>「齟齬」とはものごとがうまく噛み合わないこと。 

 

 

 

さぁみなさん、やってきました。お楽しみの時間です。

地獄が更なる地獄を呼び地獄しか生み出さないと巷で噂(?)の柿澤勇人×加藤和樹ペア。通称”大地獄製造機”。

 

見えた希望の光を片っ端から叩き割っていく。

それは悲劇であり悲劇であり悲劇であった。

シェイクスピアも目玉ひん剥いて驚くレベルの悲劇。ようこそ365泊366日の地獄ツアーへ!!!!

 

 

とまぁ、この2人は毎回毎回飽きずに地獄という地獄を私たちに与えていくので、こんなテンションにならなきゃ始められないくらい地獄。

 

なぜこんなことになってしまったのか。

そう考えずにはいられない。

なのでその部分から考えていきたいと思います。

 

 

以前公式ペア

というのも悲しくなるので、DVDペア?いやそれも悲しいから、未来(を共有できたあきかずかきこに)ペアと夢(を見続けたかきかずあきこに)ペアとしましょう!(強引)

 

話を戻して、未来ペアは名前の通り同じ未来を共有できた同じ方向を向けた2人で、夢ペアは夢を共有しきれずにすれ違ってしまった2人であると過去にも話した記憶があります。

 

彼らが大地獄を創り出してしまう理由はまさに「すれ違っているから」なのだと思います。

 

「甘えん坊で寂しがり屋なくせに強がりな柿澤ビクター」(加藤和樹氏公式Twitter 2/22かきかず公演千穐楽終了後のツイートより)は自分自身で甘えたがりであることも寂しがりであることも気づいておらず、ルンゲであったりジュリアであったりエレンであったり、周りの人がそれに気づいてビクターを支えたり背中を押したりしていた。母を失って生命を創造することに憧れた子供の頃のビクターはその夢だけを追い続け、そうした周囲の愛情に気づかず(なのか気づけなかったのか)体だけが成長した。だから甘えん坊で寂しがりなくせに強がりな天才科学者ビクターになった。

 

そんな柿澤ビクターの存在を元々知っていて憧れていたと思われる加藤アンリ。

かきかずの時のアンリは、公演期間もふせったーで話していましたが「倫理観」だけが足枷になっていたアンリで、ビクターと議論を交わすことでそこも崩されてしまってまた生命創造の道に舞い戻った科学者でした。

 

ビクターとアンリはどちらも人の死を経験して「生命」に執着をしていて、死=地獄、もしくは神の呪いと解釈をした上でそれを克服するために生命創造への道を突き進む。

一見同じ方向を向いているように見える2人がすれ違ってしまった理由。

 

かきかずには"言葉"が圧倒的に足りていなかった。

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。 - GO MY WAY !!

 

ビクターに憧れて、戦場で出会って、捨てようとした命を助けられて、議論を交わしてビクターの持つ信念の強さに、さらに憧れた。そして弱くて脆くて危うい人間であることも同時に理解をしたアンリは、その弱さまでもを包み込んで依存して彼の背中を誰よりも支えて力強く押す兄のような存在になった。きっと生まれてから「孤独」であったアンリにとって初めて同等のレベル、そしていろんなしがらみを振り払って会話ができる存在であったし、守りたいと思える人間だったんだと思う。だから友人のように寄り添いつつも兄のようにビクターを守るアンリになった。

 

守られている側のビクターもアンリが生まれて初めて対等に会話できてる人間であったし、甘えさせてくれる(というかアンリが甘やかしてる?)から無意識のうちに甘えてしまうし、信頼してアンリに背中を預けている。それが結果としてアンリに守られているという状況になるんだけど、アンリに守られて支えられていることを理解はしていないんだよね、ビクターは。

 

無意識のうちに兄弟のような関係性になった2人はものすごく全力でお互いにぶつかっていると思う。出会った時(ただ一つの未来)だってものすごくバチバチしていて(しかも感情で殴り当ている)、まだ倫理観が残っているアンリはビクターの理論に全力で反対するし、ビクターはアンリが死体の再利用の研究をしていてまだどこかで諦めきれていないことを悟ってなんで?と全力で問いただすし「偽善者」だとわざと罵って煽って足枷になっている倫理観をぶっ壊そうとする。結果は皆様ご存知の通りビクターがアンリの倫理観をぶち壊して夢を語ってアンリをその夢に共感させて引き込むことに成功したわけですが。笑

 

結局感情論と感情論の戦いだからなんとなくお互いのことを理解したような気がして、なんとなくお互いの夢が同じ方向に向いた気がしてしまった。

 

ここの2人は互いに共感(?)しあった後も研究を巡ってものすごい喧嘩してそうだし、そうではないくだらないことでの喧嘩もしていそうで、その喧嘩を乗り越えて信頼関係を深めていそうな感じで、ふざけるときは全力でふざけて楽しんでいそうな感じがする。2人だけの世界で無理も無茶もするからこの2人の時のルンゲは心労がすごそうだなとも思うし。笑

 

ただ、この2人夢を共有できていないんです。そしてそれに気づかず各々が目指す生命創造に向かって走ってしまっている。最初の時点でこの2人はすれ違ってしまっているし、すれ違いに気づかないまま時間だけが経過してしまっている。

 

柿澤ビクターはあの時点(ただ一つの未来)では、「死=神の呪い」だと考えていて、生命を創造することで新たな神になりたかったし、神の呪いを打ち破りたかった。そんな自分の考えこそが正しいと信じて、だからアンリを偽善者と罵った。

加藤アンリは「死=人の弱さ」であると考えていて、それを克服することで人間という生物を無限にしたかった。ただ神は絶対的な存在であり、その領域を侵すことで呪い=地獄が与えられると考えている。そうした倫理観が足枷になっているし、神の呪いを受け入れた上で、”生かすための科学の創造主”を目指した。

私の中ではそんなところで落ち着いていて、こう文字に起こすと「人間は生まれて必ず死ぬ」という”ただ一つの未来”を変えてやるという方向は同じはずなのに、どこか噛み合っていなくて、でも2人は言葉を交わしていないからその違いに気がつけず手を取り合ってそのまま地獄へ突き進んでしまう。

ざっくりいうと人類の創造主になりたかったビクターと科学の創造主になりたかったアンリ、ってところですかね。

 

この2人はお互いが本当に考えていることが理解できていない。

だから「恋」だし、「両片依存」なんだよね。 

 

 

 

ここでも話している通り、お互いに依存しあってはいるんだけど、依存していることも依存されていることも無自覚で、そして最初に大事なところで意思の擦り合わせができていないのに、急速に兄弟のような関係性になってしまったので自分の気持ちを言葉にするタイミングを失ってしまった。だからとんでもない地獄が生まれるし、救いのない暗闇に突き落とされる。柿澤ビクターと加藤アンリはどちらも自分のエゴで自分の行動を選択してその結果相手も自分も苦しめる。この2人のフランケンシュタインはすごく「人間の自分勝手さ」というのに重きを置いた作品だったな、と振り返って思います。

 

 

ここまでビクターが強がりでという話をしてきましたが、かきかずのアンリも弱くて強がりだったんだと思います。

この2人の関係性って他ペアよりもすごく明確だし多分ここだけが唯一アンリの方が年上だなって思えたんです。(実際に中の役者もアンリの方が上だけど、同じようにアンリ役の役者の方が年上なかきこにでは年齢差を感じなかった)だからこそアンリも自分の気持ちをビクターに伝えられなかったし、ビクターも同じようにアンリに伝えられなかった。

 

酒場シーンだけ見てもものすごく仲の良い2人には大切な「言葉」が足りなかった。だからすれ違ってしまったし、すれ違った道から元に戻れなかった。

 

たった一言「君が大切だ」と、どこかで話せていればこの2人は互いに依存しあっていたことも互いに弱い人間であるということも認識できたし、それこそかきこにのように2人で1人の人間として神に挑めた。

(酒場シーンのアンリの「君がいるから十分さ」では伝わってないんだよね、ビクターには)

 

柿澤ビクターの「命」に対する執着心と、加藤アンリの包容力とビクターへの愛があればもしかすると神に勝てたかもしれない。アンリの蘇生も成功したかもしれない。でも結局死ぬまで(死んでからも)互いの気持ちを理解しあえずに互いを求め続けた2人は一生すれ違ったままで地獄に落ちるしか道が残されていない状況になってしまった。

ビクターは自分のためにアンリが身代わりになって首を落としたのか最後まで理解していないし、アンリもビクターがそれを受け入れていないことを最後まで理解していない。どちらも強がりで意地っ張りで、本当は弱かった。

 

アンリはアンリの「自分の命よりビクターが大切でビクターを守れるならなんだってする」というエゴで身代わりになって死刑を受け入れる。そこまでの気持ちがアンリにあることを理解していないビクターは「なぜ?」が大きくて事実を受け止めきれないし、自分自身にとってアンリが一番大切な存在であるのにアンリにそれが伝わっていないことにも混乱してるし(話していないのだから当たり前なんですけど)、証言が却下されたことに対しても「どうして」が大きくて、君夢の時点でアンリの言葉を受け入れる余裕なんて1ミリもなかった。

なのに、アンリは自分の気持ちをぐいぐい押し付けてひどい時にはビクターに勝手に夢を託して、すがるビクターの手を振り払って首を落とす。

アンリとしては夢も託したし、ビクターも自分の気持ちを理解してくれる”だろう”と思って清々しく死んでいくけどビクターにとって「君の夢の中で」は呪いで、アンリが「夢の中で一緒に生きられるなら死んでも幸せ」とか言うからビクターはアンリの蘇生を目的に生命創造へ向かっていくし、夢だった生命創造を成功させて復活したアンリがアンリではなく怪物だった時にアンリは死んでしまったと絶望するし、それでも怪物の中にアンリを追い求めてしまう。なので、悲劇の連鎖で地獄しか生まないフランケンシュタインになってしまう。

 

ビクターは生み出した怪物の中にアンリがいないことを受け止めきれぬまま、アンリの影だけを追い求めて3年間、自分のこと(エレンやジュリアとのこと)は周りに流されるように、ただアンリだけを求めて生きてきた。

そんなアンリ(の顔をした怪物)が自分を苦しめ傷つけ「孤独」に追い込んでいくことに対して「どうして僕ばっかり」「どうしてアンリが」「どうしてエレンを」「どうしてジュリアを」

と、子供のように「どうして」という思いばかりが先行するビクターをもちろん怪物は許してくれないから怪物の中に生きているはずのアンリは一切出てこない(というか怪物がそれを許してくれない)し、それがよりビクターの「どうして」を強くしてしまう。

それでも最後までアンリを追い求めてしまう、それが柿澤ビクターのエゴだし、エゴだと気がつかないから悲劇が新たな悲劇をうみ、地獄へ突き落としてしまう。

 

 

そんな彼らは自分の弱さには鈍感だけど、他人の痛み、他人の弱さにはすごく敏感だったと思っていて。

アンリはビクターに勝手に夢を託したわけだけど、ビクターがどこか弱くて脆い(まぁ自分が守ってるくらいだからね)と知っていて、背中を押すように夢を託して言葉を遺すし、ビクターの前ではずっと強くカッコよくいようとするから最期まで笑顔でいた。

ビクターもアンリが強がって自分の前でカッコよくいてくれることを知っていて、そんな姿にひっそりと憧れていた。

 

アンリのそう言う部分って実は怪物(というか怪物の中にいるアンリ?)にも引き継がれていると思っていて。

加藤怪物はカトリーヌの苦しみにも共感しているし、 ジャックがどこか弱くて闇を抱えていることもうっすら理解をしていそう。何より自分自身の苦しみをちゃんと理解して誰にこの痛みを返せばいいのかを理解している。それはきっと怪物の中にいるアンリが俯瞰して怪物のことを見ていて、怪物の痛みを理解して、それが怪物自身になんらかの形で伝わったからなんだと思う。

カトリーヌに裏切られてジャックに捨てられたことで人間へ絶望したことだって、怪物自身は漠然と捨てられたことに対して悲しんでいて、怪物の中にいるアンリが怪物に「孤独」であることを伝えているというか、アンリが怪物のことを「孤独」だと思うことで怪物自身も「孤独」であることが寂しくて悲しくて苦しいことだと認識している。

加藤怪物の♪俺は怪物が”痛い”と感じる理由はそんなことも影響しているんだと思う。

そしてビクターへ復讐することを誓った怪物に対して自分の中にいるアンリが痛みを感じて、その復讐を行うことでアンリが苦しむことを理解しているからこそ怪物はアンリに対しても復讐をできたと感じたんだろうし。

 

かきかずは怪物だけがハッピーエンドというか、怪物の大勝利なエンドで時にノーヒットノーランという例えをしたこともありました。

それくらい怪物の復讐をバッチリ受けてくれたし、怪物がダメージを与えてそこで初めてお互いの気持ちに気づいて、でももう会えなくてその気持ちに対する返答もできない。人間の弱い部分、それこそ「自分のことしか考えていない」という人間の汚い部分が前面に出ているこの2人の公演は色々と考えさせられることも多かったし、何より大切なことは言葉にしなくてはいけないな、と痛感しました。

 

怪物はそんな人間に嫌気がさしていたんだろうし、自分は言葉も失って親もいなくて仲間も友人も恋人もいなくて「孤独」な状態で生まれて「孤独」の中で生きていかねばならないのに、ビクター自身にはジュリアがいてエレンがいて過去にはアンリがいた。アンリにもビクターがいた。それなのに言葉を交わさずすれ違ったままそれに気づかず自分を生み出し孤独へ追いやった。しかもそのことに気がついていない。そんな2人にめちゃくちゃ怒っていて、復讐しているし、エゴで生み出したくせに「怪物」と呼び分け人間として「個体」として受け入れず排除しようとする人間(主に創造主=ビクターとアンリ)にめちゃくちゃキレてる。

だから加藤怪物はビクターが彼のことを「怪物」と呼ぶたび怒りのギアが上がっていくし、それに気づいていないビクターは地雷を両足で思いっきり踏みつけていくから永遠に分かり合えない。

 

あとこれはあくまで仮定の話というか、和樹さんがパンフレットで怪物がアンリの人格は「ある」とだけ語ってくれていることから少し派生させて考えてなんだけども、加藤怪物にはアンリの記憶があって、どこかでアンリの性格を少しでも引き継いでいたとしたら、心のどこかでこのすれ違いに気づかせてやりたいという気持ちがあったのかなって。アンリ・デュプレって根本優しい人間だと思っているのでどうしてもそう思ってしまうし、私利私欲のためになんでもする人間に裏切られ捨てられた怪物は「復讐」という自分の欲望に目を隠されて道を誤ってしまったけど、どこかにそんな気持ちが隠されていた。

♪傷は大体どのペアでもアンリを感じる(もしくはアンリ自身だと思う)んだけど、ここのペアだけは感じないことが多くて。アンリがいないのに、この時の怪物は優しそうで儚げだった。その理由はそれなのかな〜って。

まぁ怪物自身がその気持ちに気付いていたかと言われると答えはノー寄りだと思うんだけど。そういえところまでアンリに似てしまったんだろうな。その気持ちに気づけないことが怪物の可哀想なところというか、救われないところなんだけど、でも全体的に見れば創造主(ビクターとアンリ)への復讐をこんなにも完璧にこなしてこんなにも創造主へダメージを与えて、かつ最後の最後まで苦しみを与え続けて最終的に自分が苦しみとした「孤独」に2人とも追いやることができた怪物ってかきかずの加藤怪物だけなのでやっぱり怪物の大勝利。完全勝利だし、怪物自身もやりきって殺されたんだろうな、と。

 

 

ここまで地獄だとか救いがないだとか、めちゃくちゃマイナスなことばかり話しているけど私このペアめちゃくちゃ好きでこのペアのアンリめちゃくちゃ好きなんですよぉ。(酒場の柿澤ビクター風)(この地獄がクセになって2日経つと恋しくなるくらいには好き)

本当にかきかずのアンリはすごく兄貴でバカも一緒にやってくれるけど面倒見が良くて、かっこよかったし、そんなアンリにひっそり憧れちゃうビクターも可愛かったし、何よりジャックちゃんが(以下略)

 

かきかずには本当に仲が良くて幸せそうで、でもそれを感じれば感じるほど闇が深くなるそんなペアでした。そして大事なことは言葉にしなくてはいけない、そう強く感じさせてくれました。というか、この2人はどこか幼かったんだよな。

幼い頃に受けるべき愛情を受けずに育ったから、どこか中身が追いついていないというか、そんな2人だったから「言葉」の大切さに気がつけず、恥ずかしがって言葉を交わさなかった。全身全霊で体当たりしているけど、大事なことは分かり合えていないすれ違いの代名詞。

地獄しかなくて救いがなくて、どうにかしてかきかずに幸せを…!と日々思って祈り続けていましたが、最後の最後(大阪千穐楽)でビクターとアンリが北極で出会うことができたのを観れたので、終わりよければ全て良しです。(笑)

 

かきかずの来世に幸あれ!!!

(来世はトニーとリフにな〜〜〜〜〜る〜〜〜〜〜)(やめなさい)

 

 

 

第4章 「恋着〜夢見るその瞳に互いに恋をしたあきこに〜」

>>「恋着」とは忘れられないほど深く恋いしたうこと。

 

 

儚くて、どこか大人で、出逢うことが必然だった惹かれ合う2人の運命にかけられた呪いが辛すぎる。初恋という言葉がぴったりな中川晃教×小西遼生ペア。

 

パッと見はすごくドライで、4ペアの中で一番大人で、依存度も低く見えるしかきこにが一番「友」という言葉が似合うと話しましたが、逆にここは一目見ただけだと「友」????となるペアかもしれません。

私も初見の時(東京公演)では酒場シーン見るまで小西アンリが中川ビクターの夢に共感し、ビクターを信じているのかわからなかったし、中川ビクターも小西アンリにあまり執着していないというか、ある種ルンゲと同じ立ち位置なんじゃないかな?と思ったくらいドライだった。(正しくはドライに見えた)

 

あきこにには"時間"が足りなかった。

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。 - GO MY WAY !!

 

原因は間違い無くこれです。

 

そもそもベースとして柿澤ビクターと加藤アンリが感情的、中川ビクターと小西アンリが理論的であると思っていて、だからこそ感情×理論の組み合わせだと互いにない部分を相手で補完して同じ方向を向くことができた未来ペア(あきかず、かきこに)になったし、感情×感情だったから、全力で体当たりしたけど大事な思いを口に出せずにすれ違ってしまった夢ペア(かきかず)になった。

理論×理論であるあきこには、理論的であるがゆえにお互い「不器用」だった。

ただ一つの未来でも、お互い冷静に理詰めで相手の理想をそうじゃない!と問い詰めていく。だからあきこにの時の♪ただ一つの未来は冷戦感が強いし、特に後半(名古屋大阪の時)は小西アンリが中川ビクターの夢に落ちた!という瞬間が見えなくて、それこそそれこそ最後(♪新しい未来の〜〜ため〜〜〜〜〜のあと)ビクターとアンリが固い握手を交わす時も最後までビクターの手を握るか迷いが見えたりもする。(東京では説き伏せられた瞬間がわかりやすかったんですが、多分それは中川ビクターの神性が強かった東京公演しかも序盤に見ているからだと思います)

 

お互いの持つ信念や夢に惹かれあっているし、ビクターとアンリという人間に惹かれあっている。それなのに言葉どころか態度にも出さない(というか出せないのか?)。

この2人は目指す未来自体は完全に一致していたのに、同じ未来を目指しているという事実を共有できなかったからすれ違った。

 

きっと信頼関係という面では生命創造を成功させたあきかずにも負けないくらい、むしろそれ以上のものがあったと思うし、心と心というかもっと深い部分で固く結ばれていたそんな感覚で。

ビクターはアンリがいてこそ生命創造が成功するし、アンリと共に2人で夢の世界を実現させようと思っている。アンリもビクターと2人でなら一度は諦めた生命創造の夢を実現できると考えているし、ビクターなら必ず成し遂げると信じているんだよね。その思いが一番強い2人だけど、そんな気持ちが大きくなりすぎて自分でもどうしたらいいかわからなくなってしまっているし、2人の生い立ち的にもそういった感情をどのように相手に伝えていったらいいか、むしろ相手に伝えるべきなのか、そうした根本の部分からわからなくて、最初の一歩を踏み出すことに臆病になり、結局心の奥底に大切な宝石のように丁寧に箱に入れて鍵をかけてしまいこんでしまった。拗らせてしまった「初恋」のように。

いつしかその箱の存在すら忘れてしまって、お互い惹かれあっていることにも気がつかず、あくまでもビジネスパートナーとして、でも無意識に互いを求めあって生命創造の夢へと突き進む。

 

それが酒場シーンで酒を飲んでやっと、お互い少しだけ自分の気持ちを吐露できた。あきこににとって酒場シーンが始まりであった。酒の力で自分の気持ちを少しだけでも話せて、笑いあえるなんて不器用の極みだけど人間らしいよね。

そうなんです、ここまで話してこなかったけど、あきかずの時に散々”神”であると話していた中川ビクターがめちゃくちゃ人間らしいんです。

言葉や態度には出せないけれど、行動の端々に優しさとか尊敬とかそういうものが滲み出てしまう小西アンリの影響なのか、中川ビクターの神性がすごく薄まっているというか、人間らしい心の揺れ動きが見えるのがあきこにの魅力の一つで。あきかずのビクターは神が人間界に降りてきた、だけど、あきこにのビクターは神の力を少し分け与えられた人間という感覚。強いんだけどどこか脆くて不安定で不器用なのがあきこにの中川ビクター。ってこの微妙な違いがうまく表現できているか不安ですが(笑)

 

そんな不器用な2人が酒を酌み交わしてぶつかり合ったことでやっと自分の気持ちに気が付き始めて表現する糸口を見つけかけた。

それなのに、そんなタイミングで悲劇が起きてしまった。自分の気持ちに気がついて、やっと「人生で初めてできた友達」であり「大切な存在」であることに気がつけそうだった2人は運命によって引き裂かれた。

あきこにには本当に時間が足りなかったんです。酒場シーンの直後に事件さえ起こらなければ、この2人はお互いの気持ちに気がついて同じ歩幅で夢に向かって歩いていけただろうし、ビクターも怒りという衝動で葬儀屋を殺したりはしなかったかもしれないし、アンリがそれを止められたかもしれない。

それくらいお互いを理解してお互いを信頼していた。それはもしかすると役者自身の関係も影響していたのかもしれないな、と。小西さんがパンフレットであっきーさんとは「同じ道を歩む感覚」と話していたし、あきこにだけに言える話とか、この作品だけに言える話ではなく全ての役において共通することだとは思いますが、人間が演じて他人が創り上げる他人であるからどうしても演じる人間が生きてきた道が影響を及ぼす、そんなことも相まって中川ビクターと小西アンリはここまで深い絆を、信頼関係を築けたのかな、と考えています。

もちろんあきこにだけではなく、あきかずもかきこにもかきかずも全てのペア、全ての登場人物の関係性に言えることではあるけれど、あきこにはそのことをより感じるというか、すごく深いものを築いていたのに、表に出てこない、というか出せない不器用さというのが、長年戦友として同じステージで戦って支えあって前に進んできた仲間だから出せる空気感なのかな、なんて外野かつ長年ファンでもない私がいうのもものすごく生意気な話だとは思いますが、そんなような気がしていて。

この2人が唯一”同い歳”(生まれ年的に)であったこと、同じ年に生まれて同じ時間を歩んできた、だからこそ見えない何かを感じるというか言葉にはうまく表現できないのですが、学年は違えど、同じ年に生まれて同じ時間を歩んできた強さというのが一番近いのかな。そんな強さから生まれた絆な気がしていて(私自身が目に見えてこない関係性をめちゃくちゃ探してウェーーーーイってなるタイプのオタク(希少人種)だからかもしれませんが。)すごく素敵な関係だなって、2人のビクターとアンリを見ていて思いました。

 

さて少し話が逸れましたが、不器用なビクターと不器用なアンリの話の続きを。

 

アンリはビクターをかばったとき、きっとその場の衝動というか自分でも理解せずに本能のままビクターを気絶させて逃げろと指示していて、自分がなぜそうした行動をとったのかというのを1回目の♪人殺しで民衆に罵られて「ビクターがこの場で大勢の人に罵られなくてよかった」と感じることで、自分にとってビクターが大切な存在であり、自分の命を救ってくれた恩人で恩返しがしたいと考えていることも、自分にとって友達であることも、その大切な友達を守りたいと思ったが故の行動であることも理解した。そして優しいアンリは彼のためにここで罪を被り死ぬことが運命であるということを受け入れる。

 

ビクター自身もアンリを失ってしまうという現実、しかも自分の犯した罪によって失ってしまうという現実を目の前にして、自分にとってアンリの存在が大きかったのかを初めて理解する。

ただ、実験の材料が手に入るその目前で自分が意識を失ってしまったことで生命創造への欲望も抑えられなくなっている。なによりアンリが自分にとって大切な友達であったことに対する戸惑いというか、混乱があって。中川ビクターって♪僕は殺人者、しゃがみこんだりしないことで意思の強さというか神に抗う力、決意というものを表現しているのかなって思って見ていたのですが、たった一度だけそこで片膝をついたことがあって。

 

 

それがあきこにが初めて生命創造の歴史を始めた名古屋公演の話なんですけど。

多分あの日はビクターの中で生命創造の欲望よりアンリを失いたくないという人間としてのビクターの気持ちが勝ったんだろうなと。あきこに的にはそうしたビクターの気持ちが逆に神に勝つ力になったんだろうけど。

 

アンリはアンリで、ビクターの姿を見るまでは運命を受け入れているのに、証言に来たビクターを見た瞬間その気持ちが揺らぐというか、ビクターと離れたくないという欲望が溢れ出てしまう。

土壇場で素直になって自分の気持ち、そしてお互いの気持ちに気がついた2人だけど、とにかく遅すぎた。

 

そんな小西アンリが中川ビクターに対して歌う「君の夢の中で」は完全に別れの歌で。今まで蓋をしてしまい込んでいたビクターへの気持ちを最期に伝えるアンリ。大切なビクターを死なせるわけにはいかないという気持ちと、その中でやっぱりビクターと離れたくないと思ってしまう気持ち。ビクターへの思いと未練と寂しさとでアンリも泣いてしまうし、ビクターもアンリの素直でまっすぐな気持ちを受け止めて、自分も同じであることに気がついて必死に伝えるけど、運命は変えられない。アンリもビクターの気持ちを受け止めることでビクターへの未練がすざましい。死にたくないというよりかはビクターと離れたくないアンリが歌う君の夢の中でがこんなにも悲しくて寂しくて、こんな素敵な2人を引き裂いた神を恨みたくなるなんて初めて知りました。

 

何でこうなってしまったのだろう。本当に。この2人は出会う時代、出会う場所さえ違えば必ず最高の友人になれたし、唯一無二のパートナーになれた。なぜ神はこのタイミングで彼らを出会わせ彼らの人生をかき乱したのか。なぜ彼らに残酷な呪いをかけたのか。

お互いが離れたくないと願っているのに引き裂かれてしまうこの運命を呪いと言わずして何と表現したらいいのでしょうか。私にはその言葉以外思いつかないし、神が憎い。2人にかけられた呪いが憎い。

悲しくなるから言いたくないけど「悲恋」という言葉がぴったりで、お互い気持ちが通じあったのが最期のあの一瞬だけなんて、儚すぎるし虚しすぎる。

 

でもある意味”夢の歌”でもあったのかな、なんて。

アンリは運命を受け入れざるを得ないし、ビクターと物理的には離れるしかない。

そんな状況で、もし夢を見られるなら、ビクターとビクターの夢の中で生きていきたい。そうすればビクターと離れることなく生きていける。

それがあの瞬間のアンリの見ている夢だったんだろうし、切実な願いだった。そんなことからアンリはビクターに「夢諦めない」と約束させたし、ビクターはアンリの願いを必死に受け入れて生命創造への道を突き進んだような気がします。

  

そうした理由もあってか、中川ビクターがアンリによって狂わされたと初めて感じたのもあきこにでした。

あきかずの時の中川ビクターは元々狂っているというか狂気と共存していて、アンリの首を使った生命創造という印象だったのに対して、あきこにの中川ビクターは自分のアンリに対する思いと生命創造への欲望がぐっちゃぐちゃに混ざり合って自分の感情も混乱してしまった狂ったビクターで。目的としては生命創造なんだけど、あきかずの時よりアンリを生き返らせたいが強いビクター。

 

そんなビクターなので♪偉大なる生命創造の歴史が始まるの時も、ずっと怪物(というかアンリ)をみて、「みろこの世界を!」とかアンリに向けてみろよ!と問いかけているようで。

 

だからこそ、生まれたのがアンリの記憶を失った怪物だった時にすごく絶望するしルンゲを殺めてしまった後の「アンリ」と呼ぶ声が痛々しい。

 

そんな中川ビクターが生み出してしまった小西怪物の話を少し。

小西怪物はめちゃくちゃ優しいんだという話を第二章(かきこに)でもしましたが、あきこにの小西怪物も優しくてアンリと共存しているのですが、かきこにの時より感情的で。

 

私、怪物の復讐を炎と表現することが多くて、もちろん闘技場に火を放ったこととかも関係しているんですけど、何だろう怒りとかの感情って揺れ動く炎のイメージありません?

そんな中で加藤怪物と小西怪物は炎の色が違うと思っていて、加藤怪物は赤色なイメージなんですけど、小西怪物は青色のイメージなんです。

炎って言われてイメージするのって大体赤色だと思うんですけど、青色の炎の方が温度が高いと過去に習った記憶があるのでそういう例えをしているんですが、

赤色の方がパッと見て怒っているイメージもつきやすいし、「激情」という感覚なのでパッと見て怒っているというのが伝わってくる。加藤怪物は割と怒りの感情もストレートに伝えてくる感覚なので赤色の炎を背後にまとって復讐をしているイメージ(特に♪絶望とか)「怒り」という大きな鈍器で思いっきりぶん殴ってくる感じ。

青色の炎は一見青のイメージからも落ち着いていそうだけど、実際には温度が高いようにパッと見ただけではわからないというか静かにふつふつと怒っている、そんな感覚で、小西怪物は感情を加藤怪物に比べると表に出してこないのでそんなイメージで話をしていました。青い炎を心に灯して復讐をしている感じ。それが言葉に乗って鋭い棘として1つ1つ刺さっていく感じ。

これが2人の怪物の違いで、だから加藤怪物の苦しみは「痛み」として伝わるし、小西怪物の苦しみは「哀しみ」として伝わってくるのかなって。

 

そんな小西怪物が対中川ビクターに復讐する時って少し感情的というか、上の例えをそのまま引用するなら青い炎の中に赤い炎が混じっているような感じで。

「生きる意味」を見つけ出せないことがとにかく辛くて仕方ないのが小西怪物で、生きる意味すら与えてくれなかった創造主に対して怒っているし、生きる意味として希望を見いだし始めていたところで裏切られるし(カトリーヌの話)で、冷静に復讐していく中でも少し怒りの感情が見えて。

それはもしかすると怪物の中にいるアンリの記憶を見て反面教師にしたのかもしれないな、なんて。真相はわかりませんが、小西怪物には小西アンリが共存しているので可能性はゼロじゃないのかな〜なんて。ただのオタクの戯言です。

 

かきこにの時よりも感情的で、でも加藤怪物よりは冷静に復讐をしてビクターに棘を刺していく小西怪物はやはり小西アンリが共存していて。というか、アンリエッセンスが強くて。

それも中川ビクターと小西アンリが最期の最期で素直になって求めあったからだと思うのですが、あきこにの怪物は復讐している時も怪物の後ろにアンリの苦しむ姿が見えるんです。(いや実際には見えるわけないんですがイメージとして)

同じように怪物が捨てられて「孤独」に胸を痛め復讐を決意する時にも、自分が生み出した怪物の痛みを見て苦しむアンリが見える。♪俺は怪物で怪物が流した涙の98%は怪物の感情だけど、2%くらいはアンリの悲しみな気がするくらいアンリが強い。

♪傷では、臆病な自分のせいで生まれ苦しむことになってしまった怪物に対して、そしてビクターを置いて1人にしてしまったことに対して、後悔と反省をしているし、アンリも怪物の中でビクターが苦しむ姿を見てともに苦しんだと思うし、だからこそ♪傷で涙を流したんだろうな、と。

 

そんな怪物に復讐されてめちゃくちゃ反省して後悔するビクターはきっと、そんな怪物を通してアンリを見ていたんだろうし、もしかすると怪物の後ろにいるアンリを感じて後悔して反省したのかもしれない。

中川ビクター自体が、♪後悔での後悔度合いが日に日に高くなっていったのも影響しているんだけど、あきこにの時の方がまっすぐ反省しているというか、怪物を生み出してしまったことも、アンリを失ってしまったことも自分の弱さが原因であることを理解してちゃんと反省して後悔している。生み出した怪物に対しての責任を果たそう(自分の手で殺そう)という決意を持って北極に行って怪物と対峙している。

 

そんなビクターを北極で待っている小西怪物だけど、やっぱりどこかにアンリがいるようで。ビクターに北極へ行くと告げる時もほんの少しだけビクターの方を向こうとする怪物にもアンリを感じるし、小西怪物の言い放つ「お前も1人になるんだ」があまり実感がないというか、東京であきこにを初めて見た時にこの2人は独りで死んでいかないんだって感じたんだけど、それは最後まで覆ることがなくて。

「わかるか”ビクター!!!!”」で怪物の中にいるアンリが笑顔で手を広げて僕はここにいるよ、わかる?ビクター!と問いかけているような感覚が強くて。

北極でビクターはアンリと再会できるし、2人で手を取って地獄へ落ちるし来世へ歩を進める。なんなら名古屋のあきこには生命創造の歴史を北極から始めていたし。

 

残酷な運命は2人を引き剥がすわけですが、お互いがお互いの心の中できっと繋がっていて、ビクターもアンリを心に生かして生命創造へと向かうし、生まれた怪物の中にいるアンリもビクターを心に生かして「またもう一度会える」と信じている

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。 - GO MY WAY !!

 

先日もこう話しましたが、残酷な運命に私は神を呪い殺したくなるけど、この2人は別れの君夢で一瞬だけど思いを共有できて心の結びつきをお互いが認識したからなのか、前向きな生命創造で一度は絶望してお互いに復讐されて後悔も反省もしたけどずっとまた会えると信じて北極までやってきた。

正直東京で4ペア見た後、生命創造に一番近いのはあきこにだと思っていたくらい2人の結びつきって深くて、強くて、実際にビクターとアンリとして生きていた時に思いが通じあった時間は一瞬だったかもしれないけれど、最期北極で出会えたからハッピーエンドだった。 

 

あっきーさんがツイートしていたように、この2人は来世でも薄暗い底にいても、地獄にいても、互いの手を捕まえて、次は2人で歩幅を合わせて歩いていける。

そう思える♪俺はフランケンシュタインだったし、倒れたアンリの手を取って、天(神)を見上げて俺たちは2人だぞ!と宣言できるようになったビクターをきっとアンリは笑顔で見守って、ビクターが死ぬのを待って手を取り合って死んで行く。そんな光景が見えた。

 

来世ではどうか末長くお幸せに。

 

 

 

終章 最後(まとめ)はやっぱり「クマオイシー!!!」

 

 

形的に終章という位置づけにしましたがあとがきです。くだらんことしか話してません。

 

ということで、だいぶ長くなりましたが4ペアについて随分ゆっくり考察できました(ほぼ1ヶ月かかった)(4万字目前という気持ちわるい分量になりました)(ちなみに大学卒業時に書いた論文と同じくらい)(やっぱりきもい)

 

ちなみに各章の頭にある二字熟語は私が無い語彙力を総動員して、時には辞典のお世話になりながら章のタイトルになり得るような各ペアを端的に表す言葉はなんだろうと考えに考え抜いたものです。結構色々候補はあったんですよ。奇跡とか依存とか。でもそのペアだけにあるもの、という点ではどちらもそれぞれのペアに存在しうるものだったというか、私の中ではしっくりこなくて、「相愛」「盲目」「齟齬」「恋着」というところで落ち着いたわけです。

 

ここまで読んでいただいていてあれですが、もう毎度のことながら恋とか愛とか云々は俗物的な話ではなくっていういつものアレです。念のために。

 

考えている中で、ああでもないこうでもないみたいなことをウダウダやったり、書きながらここはこうなんじゃないか?みたいなことをやったりとでここまでかかりましたがだいぶ満足しました。笑

やはり考察が足りてない部分、もっと観てもっと考えたい部分もたくさんあるので、秋にDVDが出ることを待ちます。

DVDで見直すとひっくり返ることもあるんだろうなと思いますしね。

その時はまたその時で言葉にするなりで消化していこうかなと。特に小西さんはマジで回数見れてないので(再演における唯一の後悔)、少ない記憶の中から解釈して言葉にしているのでたくさんひっくり返るんだろうな〜と今から楽しみにしています。

 

まあ!!DVDにならない組み合わせもあるんですけどね!!!!!!

悲しい!!!!私はまだまだご要望だしています。諦めたくない。強欲おたくは全ペアの映像を手にするまで満足しない!!!!(松明を手に取るオタク)

 

やっぱり「フランケンシュタイン」の魅力の一つが、キャストの組み合わせによって、観る公演よって受け取るものも違うし、ビクターとアンリの関係性も違う、ビクターとジュリアやエレン、ルンゲやステファンとの関係性やビクターの生きてきた過程も違う。なんならエンディングも違うところだと思っていて。(エンディング違うのはあきかずだけか。笑)

 

ダブルキャストの作品って珍しいわけではないけれど、ここまで解釈が変わる作品って私はこのフランケンシュタインが初めてで。

 

もちろんフランケンシュタインという作品が大好きだからというのも少なからず影響していると思うんだけども、未来ペアで言ったらまぁ正反対みたいなところありますし、同じ台本なのにこんなにも変わる?って。途中、ペアごとに台本違うんじゃないかって本気で思いました。笑

 

だからこそ、未来ペアだけではなくて夢ペアもどうにか映像に残して欲しい。

願わくばもう一度劇場に通ってフランケンシュタインの世界に浸りたい。

毎日絶望を味わってその中から希望を見つけ出したい。

 

思いは言葉にしないと伝わらないということもこの作品を通して感じたので、一生懸命声を上げて行きたい。アンケート、大事。ご要望、大事。クマ、オイシイ。(唐突)

 

https://faq.toho.co.jp/hc/ja/requests/new?s=360002669932

(そっと東宝演劇部様のお問い合わせフォームを差し出すオタク)

 

とりあえず、フランケンロス多少は軽くなったんじゃないかなというところで、グリブラの君の夢の中でを観ようと思います。(これを見て号泣するかでロスの具合を図っている)(おかしい)(ちなみに昨日のサウンドインSは大号泣だった)

 

長々とお付き合いいただきありがとうございました。

フラロス改めフランケンゾンビの皆様、秋まで強く生きましょう。

私はまだまだロスこじらせる予定なので、ひょっこり書き物していたら温かい目で見てください。(実際に考えたいことはまだまだある)

 

そして最後になりましたが、改めて。

ミュージカル「フランケンシュタイン」2020年再演を作り上げてくださったキャストの皆様、スタッフの皆様に最大級の感謝の意を込めて。

 

最後はやっぱり

 

 

「「クマ、オイシー!!!」」

 

 

 

 

 

ビクターと夢見るアンリに恋をした話。

 

どうも、フランケンロスを拗らせている民衆Aです。(だから違う)

 

この頃様々な情報に踊らされている世の中を見ると集団心理ってやっぱり怖いなと思うと同時に、アンリやエレンの処刑だって真偽がわからないのに恐怖からこうだと決めつけてしまって正しい情報を判断できなくなってしまう、目の前に見える”正義”がすべてだと思って突き進んでしまう人間の弱さは今も昔も、現実も演劇の世界でも共通認識なんだなと。

 

ってそんなことを書きたいのではありません(笑)

堅い話も真面目な話も専門外の脳が燃えた系フラロスおたくなので考察とか色々やりたいことはあるもののまずこの気持ちを整理して、燃えた脳を再生して(んなことできるんかい)またゆっくりフランケンシュタインのことを考えたいなあと思いパソコンに向かっている次第です。

ひたすらに私の解釈と好きなことしか言いません。真面目な話もしません。

とにかくあそこが好きだとかあそこのシーンはああだとか、何も考えずにただひたすら書き連ねます。要するに思い出話をダラダラするだけです。なので、ぜひ読まないでください(?)

 

 

そもそも私がフランケンシュタインをここまで拗らせてフランケンシュタインの亡霊になってしまったきっかけって度々言っているように3年前の日生劇場での出来事だったわけなんですよ。

本当に当時はかるーーーーーーい気持ちだったんです。

当時大学生だった私は他界隈でがっつりおたくしつつ学生しつつ見たいな状態で、お芝居を観ること自体は好きだけど劇場に足を運ぶ余裕も勇気もなかったんです。(年齢バレるけどスルーしてください…)

 

あるとき、軸足を置いていた界隈で仲良かった友人にそっと勧められて加藤和樹氏を見始めて。(友人が俳優の沼に落としたいと考えていたことは露知らず)

ちょうどそれと同じか少し後くらいに大学で映画の「フランケンシュタイン」を観て。でなんとなく「フランケンシュタイン」というワードが頭に残っていたんです。これが2016の夏〜秋にかけての話。で、紆余曲折色々あって初演の真っ最中、日生劇場の前を通ったんです。でミュージカル「フランケンシュタイン」が上演されている、加藤さんも出ている、ちょっと気になるな…?と思ってチケットを取ったのがきっかけでした。

 

結果としては友人の思惑通り俳優の沼に落ち、観劇の虜になり、こうしてフランケンゾンビが爆誕したわけなのですが、これが私にとっての「運命」だったのです。

日生で見たのももうほぼ終わり(1月末)とかだったので、もちろん増やすこともできず、見終わった直後というよりかは見終わって少し経った後からじわじわと効いてくるそんな感覚でした。

というか、観た直後は鈍器で頭をぶん殴られてそれこそ脳が燃えてしまった状態だったので、「すごい、すごいものを見た…」という感覚しかなくて。少ない観劇経験の中で、1幕終わりに大号泣して、2幕終わりに力が抜けたのは初めてだったんですよね。まぁ今でもそんな作品はフランケンくらいですが(笑)

 

私が初演に見たのはあきかずだったのですが、あっきーさんビクターは本当に天才で(歌唱力云々含めて)私みたいな若輩者には近寄りがたかったというか、本当に神みたいな存在でした。なんだろう、推すとかそういう次元じゃなくて信仰対象だと思ったんだよね、あの時。なんてったって神なので。いや今でも思ってるけど!!!!

 

とにかく観終わってから自分の中でいろんな感情が渦巻いて、いろんな要因も重なってアンリ・デュプレに魅了されて、まさに君夢状態でした。ビクターと夢見るその瞳に私は恋をした(?)

 

もっとアンリのことを知りたくて、アンリとビクターの創る世界を見たくて、気づいたら「再演して…」ってなってました。(ゾンビの誕生です👏)

 

そこから3年、私も生きるステージが変わって、多少は大人になって(?)、迎えた再演。

今でも終わったことが信じられないし、フランケンを観に行かない、劇場に行かない週末がまだ慣れません。

が、振り返って思うことはただ一つ「再再演して…」(結局それかい)

というのは冗談で、ひたすらに楽しかったな、と。

 

そんな気持ちをここで書き留めて、来たる再再演(来るのか!?)の時に読み直したいなぁなんて。

まぁふせったーとかにも残しているのですが、まとめ的な感じで。

ちなみに考えたいことも沢山あります。

今だと例えば登場人物それぞれの「運命」について、とか。各ペアにおけるビクターアンリ像の違いとか、その違いによってジャック怪物に及ぼす影響とか。空白の時間(戦場〜ジュネーブ帰還とか、帰還してから酒場の夜までの間とか、怪物が逃げてからの3年間とか)のことも考えたいし。

 

ただそこにたどり着くにはまだ時間が必要そうで。というのも、なんだろう日常が辛いというか、あっきーさんが大千穐楽の時に挨拶で話されていたように「日常とは違った体験」をこの2ヶ月間ずっとしていたので、日常を感じるとめちゃくちゃ辛くなるんですよね。(笑)

通勤中エスカレーターに乗っていると涙が出てきたり、ひたすら脳内で1人フランケンシュタインを上演してしまって君夢あたりで涙が出てきたり。あとちょうど東京と名古屋の間に旅行に行ったのですが、アンリとビクターにもこの景色見せてあげたいなと思ったり。この2ヶ月間、全てがフランケンシュタインを中心に回っていたので、まだ気持ちの整理がついていないというか。ずっとフランケンシュタインの話をしていたいけど、頭の中がぐちゃぐちゃみたいな気持ちなのでゆっくり整理して自分の中で1つずつ噛み砕いていけたらなという気持ちです。

 

ここまで書いてきてなんとなく各ペアの考察というか、しっかりしたものはまたゆっくり書きますが、軽い気持ちみたいなのまとめたくなったので行きます。(めちゃくちゃ自由)

 

初めてかきこにを観た日(1/19)のふせったーでも少し話したのですが、各ペアによって年齢設定というか距離感の近さとか互いに抱いている感情が違うなと思っていて。

もちろんそこから各ペア本当に変化していて、当時はあきかずのアンリはビクターを信仰しているとか、あきこにのアンリは少し後ろに引いているとか、かきかずは切磋琢磨してきた友とか、かきこには「共依存」だとか書いていますが実際に大千穐楽まで観て、各ペアを私なりに表すとしたらなんだろうと考えていて。

 

 

あきかず「強い愛で神化したVictor(勝利者)」

あきこに「運命が引き起こした壮絶な悲恋」

かきこに「互いを補完し合い愛を見出し創造主に"なろうとした"弱き男たち」

かきかず「幼き2人の全身全霊の恋、そしてすれ違い、地獄。」

※なお上から救いがある順(私の感覚で)

 

まだしっくりきていない部分もあるしうまく言葉に収まっていないけどこんな感覚で。

 

とりあえずあきかずの話からしたいと思うんですけど、1/19の時点で感じていた信仰心みたいなものって、確かにその辺りまではあったんですよ。ビクターも孤高の天才だったしアンリはアンリで勝手に憧れて崇拝している感じ。掛け違えたボタンみたいにうまく2人の方向性が重なっていなかったというか、同じ夢を見ているというより夢を見ているビクターをフィルターにして夢を見ているという感覚で。だからあの時点では生命創造に成功するなんて1ミリも思っていなかったし、ここがフランケンシュタイン再演の中で一番ハッピーエンドで、なんならエンディングを変えてしまうペアだとは思っていなかったんです。(全ペア1回ずつ見終わった直後はあきこにが一番ハピエンで生命創造に近いと思っていた)

それがSP公演(加藤和樹ver)経てまず中川ビクターが孤高の天才から人間界へ足を踏み出していたんです。多分それが大きな要因だと思うんだけど、アンリと出会ってからもどこかずっと独りだったビクターが、アンリ・デュプレを友人として認識してともに歩を進められるようになってきた。だからこそ、2人は"同じ夢"を共有して"同じ未来"をともに見られたし、その結果が1/26であり、2/15であり、その集大成が大千穐楽なんだろうな、と。

東京公演中に中川ビクターは1人より2人の力であることを理解したし、自分自身を"特別"だと自覚したんだと思う。そんなビクターに感化されるように加藤アンリもビクターを崇め奉るだけではなくて、ビクターを"特別"だと認識して、彼とともに夢を見て彼の背中をしっかり押して2人で神に挑んだ。

鬼に金棒、獅子に鰭、中川ビクターに加藤アンリ。ですね。

 

前半は神に挑むビクターとそれを応援するアンリという構図だったのが、終盤に向けて神に挑むビクターと同じ夢を見て共に神に挑むアンリに変化した。だからこそなのかなと今振り返ってみて思います。そして4ペアの中で一番このペアが変化が大きかったなと思います。まぁ一番回数見てるからなのかもしれませんが。笑

だから「強い愛で"神化"したVictor(勝利者)」というフレーズで今のところは落ち着いています。もっといい言葉ないかなって探しているんですけどね。

 

さて次に「互いを補完し合い愛を見出し創造主に"なろうとした"弱き男たち」(かきこに)の話を。

ここは本当に「共依存」という言葉がぴったりのペアで。それは初見からずっと変わっていません。そしてやっぱりこの2人は対等なんですよね。そもそも小西アンリには階級とかそういった概念は存在していませんし、柿澤ビクターも小西アンリを冒頭から(なんなら存在を認識した時から)"アンリ・デュプレ"という1人の人間として認識しているので、対等になるのかな、と。少尉、大尉と呼んでいるのは他人行儀というか距離感を図っている段階だからなのかなとか。ここは本当に出逢った瞬間"運命"だと思った。感が強くて頭をかかえる。あきかずがビクターの背中を支えるアンリという話をしましたが、かきこにはお互いの背中に自分の背中を預け合うビクターアンリなんですよね。アンリは自分の弱さ(あと一歩が踏み出せない弱気な部分)をビクターで補っているし、ビクターは"孤独"に対しての恐怖をアンリで補っている感じ。(ビクターがアンリで補っているものについてはまだぼんやりとしているからもう少しじっくり考えたい)

とにかくここの2人は運命の出逢いをして、2人で1人の人間になって、創造主に"なろうとした"んだよね。2人で1人で互いに支え合っているからどちらかを失えばもう片方は立っていられない。だからアンリはこうなってしまった運命を呪いながらもその時点で取れる最良策としてビクターの夢の中で生きると伝えるし、ビクターはビクターでアンリを自分の夢の中で生かすために生命創造する。ま、生まれたのはアンリの顔をした怪物だから絶望しか生まれないんですけれども。かきこにのビクターって多分怪物にアンリがいないってなった時点で自分も死のうと考えていそう。でも自分で自分の命を断ち切る勇気もないし、怪物だけど顔はアンリだからどこかで期待もしてしまっているから、最終的に自分の心の中にアンリを作り上げてそれにすがって3年間生きていそう。だから怪物と再会した後も怪物の中にアンリを追い求めている。アンリはアンリで誕生の瞬間はともかく早い時点で怪物はアンリ・デュプレを自覚して、共存している。怪物として復讐しているんだけど、ビクター見ると怪物の中でアンリ要素が強くなってしまうし、最終的にここの2人は2人で一緒に死んでいけるのでそこが地獄だとしても彼らにとっては楽園で幸せなんだろうし、きっと来世でも幸せに生きていく。確信できる。

だから日々3周回ってハッピーエンドと言っていたのです。(笑)

 

ここまで正規ペア(言い方はあれですが)の話をしてきたのですが、ここが公式なのも頷けるなあと思っていて。というのも、ここの2ペアは目指す未来が同じ方向なんですよね。

2人の視線がしっかりあっていて、同じ未来を見据えている。物語をまっすぐ受け取れる組み合わせだなって感じました。うまく表現できないけど。

 

あきこにかきかずは"すれ違って"しまっているんですよね。どこかで。

だから「運命が引き起こした壮絶な悲恋」(あきこに)だし「幼き2人の全身全霊の恋、そしてすれ違い、地獄。」(かきかず)なんです、私の中では。

 

まずかきかずには"言葉"が圧倒的に足りていなかった。かきかずのビクターもアンリも肉体的にはいい大人なはずなんだけど、どこか精神的に幼い2人で。お互いきっと幼少期に愛に触れてこなかったんだと思う。幼いからこそ体当たりで互いにぶつかり合っているんだけど、大事なことを「言葉」にしていないと思う、かきかずは。

話自体はたくさんしていると思うんだけど、大切な気持ちを絶対に言葉にしていない。

「口に出さなくてもアンリ(ビクター)は理解してくれている。(言葉にするの恥ずかしいし)」は大間違いだぞ!!!!と叫びたい。

本当に兄弟みたいなんだよね。やっぱり関係性が近くなればなるほど大切なこと(例えば感謝とか)って口にしづらくなる。私自身もそうだし。

どちらからも言いづらくなってしまって、なんとなく理解しているようでできていない。だからビクターはアンリが自分の身代わりになって死ぬこと(しかもアンリがそれを良しとして、受け入れていること)を受け入れられないし、アンリはアンリでビクターが生きてこその未来だと思っているのでビクターも受け入れてくれるに違いない、夢の続きを成し遂げてくれるとめちゃくちゃ信じて死んでいく。まじでエゴでしかないし、かきかずの君夢は他の人も言っているけど「呪い」でしかない。神も驚くすれ違いを起こしてしまった2人にはコミュニケーションが足りないとマジで思うんだ。大事だよ、話し合い。

そんなだから、アンリが首落とした時点でビクターは死ぬし(精神的に)、蘇らせたアンリはアンリじゃなくて怪物なのでまたビクター死ぬし(精神的に)、北極でもアンリに会えるかと思いきやALL怪物で滅多刺しにされるからビクター死ぬし(精神的にも肉体的にも)、アンリはアンリでアンリとしての自我が怪物の中にあるはずなのに、怪物の力強すぎて一切出てこれないし、なんならビクターの死を見てからアンリは死んでいそうなくらい最後まで怪物の中でアンリは死ねないのでやはり絶望だし、精神的に殺されているし、救いがないんだよな。大地獄製造機(だから言い方)は懲りずに毎回地獄を生み出して2人でヘロヘロになってカテコで魂抜けちゃうんだな。

でもビクターアンリの関係性としてはめちゃくちゃ好きで、男子校のノリというか、男兄弟のノリじゃないですか、完全に。いい兄貴とちょっと甘えたな弟。ずっと強い兄でいようとした加藤アンリがすごく好きだしカッコよかった。そんな兄が好きで好きでたまらなくてひっそり憧れている子犬みたいな弟ビクターがめちゃくちゃ可愛くて好きだった。

酒場のシーンだけ切り取ったらかきかずが1番すきかもしれ…いやそんなことはないな。あきかずもかきこにもあきこにも好きだから…やっぱ一番とか決められないですね☆

 

最後に話をしたいのがあきこになんですけど、わたしみなさんが想像している以上にあきこにが好きで拗らせてます。まじで。もっと見ておけばよかったって後悔するくらいには。

 

そんなあきこにには"時間"が足りなかった。

かきかずが幼い2人の恋だとするならば、あきこには拗らせまくった大人の初恋みたいな。とにかく2人とも不器用なんですよ、中川ビクターも小西アンリも。お互いの夢とか信念とかに惹かれあってはいるものの絶対にお互いに見せない。ただ一つの未来もこの2人だけはあからさまにおちました!!!!みたいな瞬間がなくて。でも信頼関係はものすごい深いものだと感じていて。アンリはビクターの夢にものすごく共感しているし、ビクターの思い描く未来を実現したいと考えている。そのためならなんでもできる、だってビクターだから。という感じだし、ビクターもアンリと夢見る世界をこの手で作り上げる必ず。2人で。アンリがいれば成功する。みたいな感じ。でもお互いそれを口にどころか態度にも出さないから意志の共有ができていないんだよね。目指すところは同じだったはずなのに、歩幅が違ったというか。かきかずはもうそもそも目指す先が違ってしまった物理的な(って言ったらアレだけど)”すれ違い”なのに対してあきこには出会うはずのものが出会わなかった"すれ違い"なのかなって。

相手に対する信頼とか憧れとか尊敬とかそういうものが大きくなりすぎてどう扱ったらいいのか、どう伝えたらいいのかわからない、お互いがそんな感情であるからこそ、運命の出会いをした悲恋。なんだよね。しかも自分自身がそれを自覚できていないから余計に悲しい。

時代が違えば、出逢うフィールドが違えば、必ず幸せに笑いあえた2人があの場所で出逢い、"生命創造"という神の領域で出逢う「運命」こそが彼らにとっての「呪い」だし、あのタイミングで事件が起きてしまったことも「呪い」だと思う。

酒場でやっと酒を飲んで少しだけだけど気持ちを吐露できたというか、あそこでやっと友人としての一歩を踏み出そうとしていたのに、あんな事件が起きてしまうのが絶望。(まあ事の発端はビクターだけど)

アンリはあの場でビクターを庇ったこと自分の行動に対して牢屋でビクターと対峙してやっと理解した(多分本能的に庇った)し、ビクターも「アンリが自分にとって唯一無二の存在でかけがえのないパートナー」であったことを♪僕は殺人者の葛藤〜君夢あたりで理解するから本当に時間が足りていない。臆病な2人は一歩進むのに、時間がかかってしまうんです。だから神様、時間をください、あきこにに!!!!!!!!

残酷な運命は2人を引き剥がすわけですが、お互いがお互いの心の中できっと繋がっていて、ビクターもアンリを心に生かして生命創造へと向かうし、生まれた怪物の中にいるアンリもビクターを心に生かして「またもう一度会える」と信じているというか、なんだろう、小西怪物はかきこにの時にも言ったようにアンリと怪物が共存している感覚で、かきこにの時よりもアンリエッセンスが強いというか、怪物としてビクターに復讐している時もどこかに心を痛めているアンリが見えるんですよね、あきこにの時は。

でも結局信頼が根底にある2人なので、最終的には死んでも死ななくてもハッピーエンドというか、と言っても私が見たの3回なんですけど、そのうちもう一回創造するわってなったの2/14のバレンタインデーの魔法だけなんですけど。

でも名古屋の日は彼らの深い信頼が起こした奇跡だったし、他の2回は北極でビクターも怪物も死ぬけど、お互いがお互いを引き寄せて、最後に再会できて幸せに死んでいく2人だし、ここのペアには来世でも地獄でも幸せにな!!!!!!って叫びたくなる、本当に。

1番ドライに見えるし距離感も感じる2人だけど、見えない絆は1番強いと思えたあきこにが円盤化されないのやっぱり納得いかない。(結局そこに戻る)

 

 

 

ここまでだらだら感情が赴くままに書きましたが結局ロスを拗らせただけでした。

(ちなみに恋だとか愛だとかめちゃくちゃ言ってますが恒例のアレです、俗物的な意味じゃなくってやつです。)

そして1週間経っても全く気持ちに整理がついていないんだなと笑っています。まとめにもなってないし、ひたすら4ペアのことだらだら書いてただけだしな。(笑)

 

書いているうちに推しペアが決まるかなと思いましたが、やっぱりどのペアが一番とか決められなくて、全部好き!(強欲)

でも私の生みの親はあきかず(初演)です。ありがとう、3年前のあきかず。そしてよくやった3年前の自分。

 

フランケンのことはまたゆっくり自分の中で噛み砕きながら色々と考えていきたいですし、しばらくはロスを引きずりフランケンの話しかしないと思いますが、温かい目で見守るかそっとフォローを外してくださると嬉しいです。

 

こんなご時世に大千穐楽まで駆け抜けられた喜びと奇跡を胸にそっと抱えて明日からも頑張ります。

 

 

 

 

君の夢の中で

 

どうも皆様はじめまして。

ミュージカル「フランケンシュタイン」とアンリ・デュプレに魅了され狂ってしまったオタクAと申します。(違う)

 

こちらはミュージカル「フランケンシュタイン」で歌われるアンリ・デュプレのナンバー「君の夢の中で」を軸にしてアンリ・デュプレについての解釈をまとめるブログです。(というかアンリ・デュプレに魅了されたフランケン狂いのしがないオタクの気持ち整理ブログです)

 

ちなみに日本版(待望の再演真っ只中です!)の話です。

 

読んでくださってる方はおそらくミュージカル「フランケンシュタイン」をご覧になった方、ご存知の方が多いかと思いますが、この曲について簡単に説明を。

 

「♪君の夢の中で」は生命を創造するという夢を持つ科学者ビクター・フランケンシュタインが犯した罪をかぶり死刑を宣告される彼の親友で共に研究を行う同志であるアンリ・デュプレが、死刑執行前にビクターに自分の夢を託すことで彼を励まし、彼の夢を応援する。そして親友(ビクター)と別れ独りで断頭台へと向かう、まさに死にゆくアンリの全てを表すナンバーです。涙なしには観られない。すでに2桁観劇している私は99%の確率で泣いている。そろそろ双眼鏡水没しそう。

(東京公演中に下書きしていた時には百発百中だったけど一度だけクソサイコパス死にたがりエゴアンリ(言い方)のおかげで泣かなかった日が1日だけあったから99%です、笑)

誰か涙なしでこの曲聞ける人いたら秘訣を教えて欲しい。切実に。

 

 

ということで、地方公演が始まる前にこの曲について、そしてアンリ・デュプレという人物について自分自身の解釈をまとめておきたいと思います。

この作品は人物についても、脚本についても、すごく観客側に解釈の幅を与えるものであるので、共感していただける部分もあればこうして私の考えを読んでこれはそうじゃない!と思うこともあるかと思います。が、それもまた一興。だと思います。私もそういう議論がしたくて書いている面もあるし。

というかそもそもキャストの組み合わせによっても違うし、同じキャストでも日によって違う。こんなに毎日受け取る感覚が違う舞台って見たことないかも?レベルです。

あくまでも私自身の考え方であることを念頭に置いていただけると幸いです。

そしてぜひ熊カレーかかみなりおこしを肴に語り合いましょう!!!!(大真面目)

 

 

ちなみにこのブログでの「アンリ」は加藤和樹さんのアンリを主に指します。(初演の加藤和樹さんアンリで沼落ちしたオタクなので…)小西遼生さんのアンリの話をするときは呼び分けとして「小西アンリ」なり、わかる形で書き記したいと思いますが、小西アンリはあまり回数観れておらず直感的なものが大きいので曖昧です。

「ビクター」は大きくビクター・フランケンシュタインという人物を捉える言葉として使っているので、キャスト特定の際は「中川ビクター」「柿澤ビクター」と呼ぶことにします。

 

 

さて、まずアンリ・デュプレという人物についてとりあえずわかっている情報を書き出します。

①名前はフランス系の人だけど、フランスと敵対している軍隊に所属。

→アンリ自身もドイツの大学出身であるからプロイセン軍??

②階級は少尉、軍医。

③アンリには「親がいない」(「♪一杯の酒に人生を込めて」より)

④ビクターと出会う2年前に死体の再利用についての論文を発表。「あそこまで生命の秘密に迫りながら…」とビクターに言わせるほどの出来。

インゴルシュタット大学(インゴルシュタットは原作「フランケンシュタイン」の舞台)を首席で卒業。人体接合手術の新たな方法を草案し、生命科学界に波紋を起こした”問題児”(byビクター)

 

私は軍隊とか医学とか階級との兼ね合いとか諸々全く詳しくなくて現時点では文献もほぼ読めていないウィ○ペディア頼みの知識なので、その辺り詳しい人いたら教えてください。

 

ということで私の中でのアンリ像の中で特に考えていきたいことは2つ。

「人の命を助けようとするのに自分の命には無関心なのはなぜか」

「アンリが死体の再利用=生命創造に関心をもったきっかけは何か」

 

まず前者から。

アンリは登場シーンから敵兵を助けようとしていますし、「♪ワーテルロー」でも「(戦争は)殺し合うことが目的じゃない 制圧するのが戦争だろう」「命は大事だ 敵であっても」と言ってるあたり「他人の命」を助けることにおいてはすごく熱心というか、気持ちがあるのに対して、スパイの罪を着せられて自分が殺されそうになっていることに対しては無関心というか、「殺せばいい」の諦めた感じというのが引っかかっていて。

アンリは「生きる意味を見つけられていない」くて、「(人は)いずれは死んで離れ離れ」「”孤独”こそが我々の運命だとしたら私はそれを受け入れようと思っていた」というところから、「人間」というものに絶望していそうだなと思います。

その絶望を味わうきっかけになったのが、死体の再利用の研究をしていた時に起きたのだろうと推測しています。

ではなぜ、絶望を感じている「人間(他者)」の命に対してあんなにも熱心なのか。

私の中ではおそらくアンリが生命創造に興味を持ったきっかけが「人の死」であったからだと思うんです。

ビクターも母の死がきっかけであったように、アンリ自身も「人の死」というものに触れて、それで「人の弱さを直したい(♪ただ一つの未来 より)」と考えた。だから他人の命を救う軍医になったんだろうと思うし、あんなにも「他人の命に執着している」んだと思います。

 

その研究を行ったことで「神への恐れ」と「人間への絶望」を抱いたと語るアンリは、おそらく全世界から否定された気持ちになるような、そんな出来事が彼の身に降り注いだのではないかと感じます。

ビクターも故郷のジュネーヴでは「恐怖」の対象だし、ビクターと同じようにアンリも「忌み嫌う対象」であり、「まともな人間じゃない」という烙印は押されていると思う。

このあたりのアンリの過去については後の話でもう少し考えていきたいと思います。

 

そんな感じで、他人の「死」には否定的なのに、自分自身の「死」に対しては肯定的というか、一定のラインまで到達してしまった感のあるアンリ・デュプレは、ビクターと出会うことでこの思いをより強くしてしまったというか、他人の死がイコールビクターの死に直結してしまうし、その他人の中でもビクターは自分に生きる意味を与えてれた唯一無二の存在なのだから、アンリ的には最優先事項が「ビクターを死なせないこと」になってしまうんだろうな。

特に加藤アンリの時にはその雰囲気が強くて。

「ビクターのために死ねるなら後悔しない、ビクターがそれで生き残るなら自分の夢は彼に託して、彼のために死ぬし、それが自分の幸せ」という感じ。まあ観る回によってもめちゃくちゃ違うからなんとも言えないけど、行くとこまで行ってしまった時のアンリ(東京公演序盤の対中川ビクターに対する加藤アンリとか)はそういう感じ。

 

結局考えたい点については全く結論が出ていないけど、アンリが

人の命>>>>>自分の命

な理由はそんなところだと思う。今の時点ではね。

 

さて続いて、

「アンリが死体の再利用=生命創造に関心を持ったきっかけは何か」

という話ですが、先ほども触れたように、アンリが生命創造に関心を持ったきっかけって「人の死」だと思うんです。

人は生まれたら必ず死ぬ。死んだらそこで終わり。(まあ宗教によって色々考えはあると思いますが)

生まれた瞬間から私たち人間含む「生命」に定められた運命。

かつてのアンリ・デュプレは何らかのきっかけでその運命を目の当たりにして、絶望ないしは野望に燃え、「この世界を変えたい」と願った。私ここのきっかけって加藤アンリと小西アンリとで違うと思うし、対ビクターによっても違う、何なら日によって違うと思っているので、大枠だけとりあえず。

 

まず加藤アンリと小西アンリの違いですが、加藤アンリは「人の死」から「生命」に興味を持って、好奇心から研究を初めて絶望していそうなのに対して、小西アンリは「人の死」からまず一度絶望して、ある種ビクターと同じように「世界を変えたい」と思って研究を始めていそう。

小西アンリの方が闇深そうって思ったの、多分このあたりも影響してる。笑

そんなあたりから、加藤アンリは「人の死」と行っても遠い人(例えば近所の人、とか、たまにしか会わない親戚)の「死」に触れて、「どうして?」という興味から研究を始めてそう。研究を始めた後に経験した絶望というのが多分近しい人の「死」なのか、同等くらい辛い「別れ」だと思う。それに加えて人間の汚い部分(それこそ嫉妬とか、憎しみとか、媚びとかそういうもん)でボコボコにされていそう。そこで初めて人間が弱くて愚かで自分のことしか考えていないかを知り、絶望して、研究をやめてしまった感じなのかな。と。

 

対して小西アンリは近親者の死を経験して、その絶望を動力にして「人の弱さを直して誰も失わない世界」というのも理想に掲げて研究していそう。「僕には親がいない」と語るアンリだけど、小西アンリは親を失ったことで、悲劇を二度と繰り返さないために研究しているのでは?とも思える。(ちなみに、加藤アンリは親の愛情の記憶がなさそうだなって思っている。孤児で養子説を推しています)だからこそ研究を否定された挙句、また大事な人を奪われて絶望に苛まれ、「神よまたも呪うか」状態になっていそうだなと思った。2回しか見てないけど。闇属性小西アンリおそるべし。

 

自分の弱さも人間の弱さも知ったアンリがビクターに出会って、彼の信念や理想、”神をも恐れぬ勇気”に触れ、魅了された。自分にはない部分をビクターで埋めて、2人で夢に向かって歩く。そんな2人にかけられた「運命」という呪いが辛すぎる。

そんな「運命」を(人とその日のコンディションによるけど)辛いながらも受け入れ(!?)、ビクターの胸に自分の夢を託し、そこで次の人生を彼と共に生きることを決意する場面、それが「♪君の夢の中で」だと思っています。

それと同時にビクターが「生命創造」に対する決意を固める大事なナンバーであることも触れておきます。

 

その決意というのがまた2人のビクターで違っていて、基本的には中川ビクターは言葉通り「"人間の"生命創造」を、柿澤ビクターは「"アンリの"生命創造(というか蘇生)」の決意を固めているように見えまして。もちろんここも日によって、アンリによって変わるのでなんとも…な部分なのですが大枠はこんなイメージ。

もちろん2人とも「親友アンリを失いたくない」というのは大前提で、というのもおそらくビクターにとって唯一「友」と呼べる存在であったアンリを失うことということは、母を亡くした時と同じくらいの悲しみ、心の痛みだと思っていて。

というか、ビクターにとってアンリって友であり仲間であり同志であり兄弟であり母であったのかもしれないなって思います、もはや。加藤アンリとか母性の塊だしな…?

 

余計な話が出てきそうなのでここらで一旦置いておくとして。

とにかくビクター的にはアンリを失うことは母を失うのと同じくらい辛いわけで、生命創造の世界へ誘ったきっかけと同じレベルの絶望、痛みを味わえばまあそちら側へ強く引かれてしまうよなって納得。

私がビクターならアンリを死なせない→アンリが死んでしまった→絶対生き返らせる(血眼)みたいになると思うし。やっぱり鮮度が命だから(腐った脳みそは電流に耐えられないとビクターが嘆いていた)、悲しむ間もなく実験するしかない。それが余計ビクターを狂わせるというか、もはやハイだよね。生命創造ハイ

でもアンリを生き返らせる(血眼)感が強いのは柿澤ビクターだなと思います。

 

2人のアンリが柿澤ビクターの人生を狂わせたというか、アンリが死んだことで柿澤ビクターはイカれてしまった感が強い。しんどいねぇ〜!!!

逆に中川ビクターは内側に狂気を秘めていて、それがアンリの死によって解放された感じがまた2人のビクターの♪偉大なる生命創造の歴史が始まるで出ているのが面白いなぁと。

 

おっと話がだいぶ逸れてしまいました。そろそろ話を本題に戻そうと思います。

 

 

そんなこんなで(ざっくりまとめすぎ)闇を抱えて人生に絶望しているアンリ・デュプレが、偉大なる夢をアンリとともに見ているビクター・フランケンシュタインのために死んでいく、その心情を表したアンリの大ナンバー「♪君の夢の中で」の話に入りたいと思います。

 

どこのフレーズが好きだとか、あそこのメロがいいとか、なんとかかんとかそんなこと考えられないくらいこの曲とアンリ・デュプレが大好き(大の字)

なのですが、言ってると何も始まらないので先に進みます。笑

 

やっぱり一番印象的なフレーズと言われると

一緒に夢見れるなら死んでも僕は幸せ

なのかなと思います。私は。

ここだけ切り取って書き出すと、アンリ・デュプレヤバイやつですね???

いや極端でヤバイやつではあるんですけど。(笑)

このフレーズがアンリの想いを全て語っているというか、アンリの心の底からの気持ち、本心だと思うんですね。アンリの頭の中では決意固まっているし、本当にビクターの夢のために死ねるのならば幸せだと思っているのは間違い無いんです、2人のアンリどちらも。頭では理解しているし、自分が死んでも君(ビクター)の夢の中で生きていけると信じている。ただ、心がどうしてもついてこなかったり、逆に想いが先走ってしまったり、で日によって人によって大きくこの曲に対する感じ方が変わるのがまた魅力だなと思います。

(解釈等々は観劇感想ふせったー(またの名を感情ぶん投げ備忘録)で、気持ちのままに書き綴っている通りで、フランケン期間が終わったら少しでも綺麗にまとめようと思っています。できるかはわからないし今の所できる気がしていません!

 

あとアンリが死んでもビクターと夢を見て、その夢の中で生きていける、と絶対的な信頼を置いているのもまた面白いなと。

 

私の中でアンリってビクター以外には上っ面というか、表面上はすごく人当たりの良い好青年ですが、ビクター以外を一切信用していないような印象がありまして。後にも少し話しますが、たぶんビクターと出会う前は「人間」に対する信頼を失っていると思うんですよ、アンリ・デュプレは。酒場のシーンとかでそれがすごく顕著に出ている気がします。

表面上の付き合いと顔の良さとノリで世間を渡ってきたんだろうなって感じます。ぱっと見はわからないけどすごく寂しくて哀しい人なんだと思います、彼も。

そんなアンリがビクターの輝きに魅せられたらそりゃついていきたくなっちゃうし、初めてアンリが心から「信頼」できる存在であったのだから夢の中で生きられるというところまで信頼しきってしまうのも納得だなぁと。

それってビクターもきっと同じで、お互いがお互いを信頼しきってるからこそ生まれた悲劇だと思います。そのあたりは後日詳しく深掘りして行こうと思います。

 

 

 

そして最初に挙げたフレーズと同じくらい

夢見るその瞳に僕は”恋”をした

というフレーズが印象的です。

 

よくふせったーでも「俗物的な愛とか恋とかじゃ無い」という話をしますが、ここでアンリが「恋をした」と語っているのって、恋愛感情的な「恋」ではなくて、もっと心の奥深いところで惹かれてしまった、という意味合いの「恋」だと思っています。

 

「恋」という言葉を調べると、恋愛だとか特定の異性に強く惹かれるだとか書いてあるように、どうしても恋愛感情的な意味に捉えられがちの言葉をあえてビクターに対して使って語りかけているあたりがアンリの気持ちの本気度合いを表していると思いますし、このフレーズを歌う時のアンリの顔とか歌声ってすごく優しそうで、嬉しそうで。アンリとしても初めての経験だったと思うんです、ビクターとの出会いって。ビクターにとって人生で唯一「親友」と呼べる存在であったと同時にアンリにとっても同じように人生で唯一「親友」と呼べる存在であったんでしょう。

 

アンリ・デュプレ像の話でも少し触れましたが、アンリは生命創造の研究を通して「人間への絶望」を抱いて、生きる意味を失ってしまった(もしくはもともと持っていなかった)。それがビクターという人間に出会った瞬間、例えるならモノクロの世界だったものが一瞬にして色づいたみたいな衝撃と魅力を感じてしまったのではないかなと思っていて。人間衝撃には弱いんだよな。(ソースは私。)

 

きっとアンリってその生命創造の研究前後で人間からの「愛情」の受け方とか「信頼」の仕方とかそういった普通の人が普通に持っているものを失ってしまったのではないかと考えていて。生命創造って言い方変えれば死者を蘇らせるということで、それって今でも倫理的にアウトだし、そういう研究をして論文まで発表したアンリ・デュプレはどう考えても世間から追い出されている。なんならアンリ・デュプレはそこで一度死んだのかもしれないとすら思う、私は。

 

軍医として他人の命を救うことで自分の存在意義を見出していて、かつ神への罪滅ぼしみたいな側面もあって、それでいて未だ自分が生きる意味を見失っているアンリが、神も恐れず、人間も世間も恐れず自分の夢だけを追い続けるビクターに出会ったしまったらそりゃあ「恋」に落ちてしまう。

その「恋」っていうのが先ほども言った通り俗物的(恋愛的)な意味ではなくて、彼の信念や夢、彼の夢見る希望に満ちた世界を一緒に見てしまったから、心が衝動的に動かされてしまってビクターしか見えなくなってしまう、何よりビクターが放つ「輝き」に魅了されてしまった。そんな状態を指していると思います。

(それがAメロ頭の「烈しく魅了する 哲学 信念 情熱」の最後に「輝き」を持ってくるあたりで表現されているんじゃないかな?)

 

結局ビクター・フランケンシュタインという人間の全てに魅了され、言い方はアレですが”惚れ込んだ”アンリはビクターという存在、ビクターの夢こそが生きがいになってしまった。

エレンからビクターの亡霊の話を聞いた時に「生きる意味を未だに見つけられていない」と語っているアンリですが、(アンリ自身に自覚があるかは別として)この時点ですでに”ビクターの夢のために生きる”ことに自分の存在価値を見出し始めているし、それがアンリの中で確定した決定的な瞬間が、ビクターが葬儀屋を殺した時だった。

アンリはビクターに夢を諦めず輝いていてほしいと願った。だから自分が罪を被り、彼のために死ぬことにした。

そうすればビクターは生きて研究を続けられるし、自分の首という新鮮な実験材料を提供できる。そう思ってその選択を「運命」と語りビクターに納得させたんだとおもう。

特に再演の加藤アンリは後者の部分が強くて、どこかのふせったーで話したけれど、

「加藤アンリは自分の首で実験が成功する未来まで見えて死んでいくし、ビクターが歴史を変える瞬間は自分の首がいいと思っていそう」なんですよね。もちろん冒頭で話したように「ビクターを死なせたくない」というのも根底にありつつ、でもどちらかといえば自分自身の喜びが前面に出ているイメージ。

 

小西アンリは私が見た中でのイメージだけど、ビクターの夢の中で生きるより、ビクターを死なせたくないが強くて、でも自分自身もビクターと離れたくない気持ちも強くて、死ぬ前にビクターと会ってしまったから少し離れがたいというか、死に対する恐怖ではなく”ビクターと(物理的に)一緒に生きていけない寂しさ”が前面に出ているのもまたダブルキャストの面白いところ。

もちろんここも日によって、対ビクターによって変わるから、ざっくりしたイメージですが。

 

そんなイメージなので、加藤アンリの時は「一緒に夢見るなら死んでも後悔しない」が

”だろうな〜〜〜〜”

と感じるのに対して、小西アンリの時は

”嘘だろ!?!?怒らないから本音を言ってみろ、な????”

ってなるのが個人的には好きです。

 

何より、今までビクターのことを放っておけない感じは出ていたものの言葉には全くしてこなかったアンリのビクターに対する「信頼」そして深い「愛情」がストレートで、でも上品な言葉で表現されているこのナンバーが大好きです。

 

 

2人のアンリそして2人のビクターによって、同じ曲、同じメロディ、同じ歌詞であるのにこんなにも感じ方の違う作品には出会ったことがなくて、その面白さが一番顕著に出ているのがこの「♪君の夢の中で」という曲だなと思ったので、自分自身の気持ちの整理も兼ねて書かせていただきました。

結果としては、全く整理できていないし、何が言いたいのかもわからないし、ただただフランケンロスを拗らせているところではあるのですが、名古屋に向けてまた違った気持ち(?)で観劇できるのではないかなと思います。

 

もしここまで読んだ方で、フランケンシュタイン未見の方がいるとするのならば今すぐチケットを購入することを全力でオススメします。名古屋、大阪とまだ公演はあります!間に合います!素晴らしき友情と哀しき復讐劇が起こす奇跡の目撃者に!!共になりましょう!!!(何言ってんだ)

 

 

ご静聴ありがとうございました。